〈 北朝鮮側は「死亡」と回答、遺骨を鑑定すると…外事警察が追いかけた「拉致被害者ニセ遺骨事件」の裏側 〉から続く
一発の銃弾も撃たず、一滴の血も流れはしないが、まぎれもなく国家の存立と国益をかけた戦場にいたといえる――前国家安全保障局長の北村滋氏は、日本のインテリジェンスの最前線に立ち、数々の修羅場をくぐり抜けてきた日々をこう振り返る。
ここでは、知られざるスパイとの闘い、水面下での極秘任務の数々を明かした 『外事警察秘録』 (文藝春秋)を一部抜粋して紹介する。2004年に発生したロシアによるスパイ事件は、いかに摘発されたのか。(全2回の2回目/ 最初から読む )
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SVRスパイの手口
2004年4月、千葉市の幕張メッセ。メインの国際展示場だけで5万4000平方メートルの展示スペースを持つ日本最大級の複合コンベンションセンターで開かれた電気機器の展示会の片隅で、西欧人風の男が動いた。
「イタリア人で名前はバッハです」
出展企業の一つである東芝系子会社のブースでこう自己紹介した男は、製品説明役の男性社員に「経営コンサルタントで、日本への進出に当たり力を貸してほしい」と語りかけ、急速に間合いを縮めていった。都内の飲食店などで重ねた接触は、翌2005年初夏までの間に十数回に及んだ。社員は「バッハ」に、営業秘密を漏らすまでになっていた。
だが「バッハ」には、社員に見せない別の顔があった。ロシア連邦対外情報庁(SVR)のスパイ、ウラジーミル・サベリエフ――これが、男の正体だった。
サベリエフは、日本に入国、滞在するに当たり、日露貿易の発展などを所管する在日ロシア連邦通商代表部員という公的身分を装ったオフィシャル・カバーだった。
実際のところ、通商代表部にはオフィシャル・カバーが多く所属していた。外事警察による過去の摘発事例も少なくなく、経済産業省や業界団体は、メーカー等に対して「ロシア通商代表部」に関するアラートを鳴らしてきた。国籍や職業を偽って接近したのも、ターゲットに警戒心を抱かせないためだった。
SVRスパイは、エージェント獲得の初期、インターネットで容易に入手可能な公開情報を求める。これは、対象者に安心感を抱かせるためだ。次に閲覧者が限られる、非公開情報を要求。これに、少額の金品を与える。
対象者はこの段階で“私は相手にとって不可欠な存在なのだ”という「承認欲求の罠」に嵌る。そして、次第に「逢瀬」を重ねる中で、機密資料の対価として比較的高額な現金――多くの場合、1回当たり10万円程度――を渡すようになる。
ここまでくると、対象者は、カネと承認欲求の充足を通じて、スパイに経済的、精神的に依存するようになってしまう。サベリエフの手口も、ほぼこのSVRスパイの「定石」に沿っていた。
エージェントとなった社員は、サベリエフの要求を満たそうと、大胆にも会社から貸与されたノートパソコンを社外に持ち出し、目的の情報をコンパクトフラッシュカードに複写して手渡していた。
ロシア・スパイの貪欲さ
この事件で、サベリエフが社員に支払った謝礼は総額100万円程度だった。さらに、サベリエフは社員が勤務する企業の社内ネットワークへの侵入方法にまで関心を示していた。
この情報が漏洩していたとしたら、当該企業がサイバー攻撃のターゲットになったことは疑いない。ロシア・スパイの貪欲な情報収集活動と、危険な本質に戦慄するばかりだった。
この事件で漏洩した情報は、パワー半導体に関する技術情報だった。技術流出にまつわる捜査では、被害状況を把握するため、当該漏洩情報に関する製品のスペック(性能や仕様)と技術そのものの有用性について、流出元企業に確認を行う。流出元企業は、管理責任の回避や刑罰減免のため、性能を低く説明することが多いが、この事件もその例に漏れなかった。
ロシア側に漏れたのは、電流を制御する半導体素子に関する情報。民生品に使われる技術で、流出元企業は「顧客に説明するための資料であり、軍事転用できるレベルではない」と主張した。しかし、実際には、潜水艦や戦闘機のレーダー、ミサイルの誘導システムへの転用が可能な「デュアルユース」との結論を得た。
日本の安全が、たかだか100万円程度で売り渡された。ロシアにとっては実に安い買い物だ。我が国は、また一つ、経済安全保障という血の流れない戦場で敗北を喫したのだ。
スパイ事件の捜査は、端緒の捕捉から監視、採証、着手に向けた検察、経済産業省など関係機関との連携など、いくつものハードルを完全秘匿裏に越えていく。繊細さにおいて気の遠くなる作業の先にやってくる最大のヤマ場は、スパイとそのエージェントとが相揃う接触現場で、任意同行を求める瞬間だ。
スパイの“悪夢の瞬間”
2000年9月7日、外事警察は、その時を迎えようとしていた。
東京・浜松町にある洋風居酒屋の一角で、海上自衛隊三等海佐と欧州人の間で情報と現金の封筒が取り交わされた瞬間、2人が歓談する席に影のように接近した捜査官が声をかけると、注文のやりとりや客同士の話し声が醸す混然一体の空気に満ちていた木曜夜の店内は一転。従業員や酔客に扮した警視庁公安部外事第一課と神奈川県警外事課の捜査員らは、たちどころに法執行官としての本質を顕わにして、被疑者の周囲を取り囲んだ。
欧州人の名は、ヴィクトル・ボガチョンコフ。在日ロシア大使館付海軍武官(大佐)をオフィシャル・カバーとしていたが、実際にはロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の機関員だ。彼は海上自衛隊三佐に対して、スパイ活動を行い、自衛隊の秘密指定文書等を入手していた。
ボガチョンコフは警察の職務質問の求めに黙秘。外交官身分証を提示して任意同行を拒否し、ロシア大使館差し回しの車でその場から立ち去ると、結局、2日後、空路帰国することになった。
エージェントとの接触現場を押さえられて警察に任意同行を求められ、マスコミのカメラの放列の前で世間に顔をさらしながら帰国するという結末は、スパイにとっては、いくら強がったところで“悪夢の瞬間”だろう。
一方、外事警察にとっては、昼夜を分かたぬ長期にわたる作業の一つの理想形だ。ただし、ハードルが多いが故、それは容易に果たし得ない“夢の果実”でもある。
「ボガチョンコフ事件」から5年。この間、外事第一課は、米国から供与され航空自衛隊が運用していたサイドワインダーミサイルの「シーカー部」に関するマニュアルなどの入手を試みたGRUスパイ、アレクセイ・シェルコノゴフを東京地検に書類送検してはいるが、それは、帰国後2年も経ってからのことであり、外事第一課は、“悪夢の瞬間”を味わわせる仕事から長く遠ざかっていた。
「外一は存亡の危機だな」
長期にわたる内偵の積み重ねが東京地検から受け入れられず、事件として成り立たないケースもあった。
警視庁公安部には「外事は年一(ねんいち)」という言葉もあるように、1年に1度、社会にインパクトを与える事件を検挙するという不文律がある中で、「外一(そといち)は存亡の危機だな」と自嘲気味に話す現場幹部もいた。捜査員全体にもフラストレーションが澱のように溜まっていた。
だからこそ、私をはじめ外事警察、就中、対露防諜を担当する警視庁外事第一課のスパイ・キャッチャーたちにとって、サベリエフ事件は猟犬の本能を呼び覚ますものだった。
しかし、捜査は「政治日程」から紆余曲折を辿ることになる。
2005年は、「日露修好150周年」という特別な年だった。日本では、前年からこのムードを盛り上げるべく、地方自治体から経済団体まで「日露修好150周年」を祝い、記念する催し物が目白押しだった。
プーチン氏は、2004年にロシア連邦大統領選挙に70%以上の圧倒的な得票率で再選。ロシアの混乱を収拾し、実利主義で国家を主導してきたプーチン大統領の指導力と「経済開発」に向けた意欲――日本の政界、経済界には、ロシアの変化を牽引しているプーチン大統領に対する警戒よりも期待が広がり始めていた。
課題は“外交関係”との駆け引き
サベリエフ事件の動きが急になった2004年秋から翌年1月にかけ、警視庁外事第一課長、豊見永栄治警視正が警察庁外事課に来訪する頻度が上がった。
通常の報告であれば、外事第一課の事件担当の管理官が、警察庁外事課のロシア担当課長補佐を訪ねるが、2005年の年明けになると警察庁外事課長だった私自身が豊見永課長から捜査の進捗について仔細に報告を受け、上司の瀬川勝久警備局長に報告するようになった。報告の過程で瀬川局長からは、よくご自身の外事第一課管理官当時の体験談を聞かせていただいたものだ。
課題は、捜査の着手をめぐる“外交関係”との駆け引きであった。
捜査情報の蓄積と分析から外事第一課は、サベリエフに“悪夢の瞬間”を見舞うXデーを3月某日と定めたが、このXデーを前にサベリエフは一時帰国して、行方をくらましてしまう。私の手帳の同日の欄には「(警視庁関係)延期」と一行。
Ⅹデーをめぐり検討が続く中、サベリエフが6月に離任し、帰国するという情報が入る。
最後のチャンスとなった6月初旬の木曜日に向け、慎重に、淡々と準備を続けたのだが……。
手帳の6月10日の欄に、私はこう書きつけた。《12:10、AFL576》。サベリエフは“悪夢の瞬間”を味わうことなく、同日正午過ぎのアエロフロート機でモスクワに向け日本を飛び立ったのだ。
失望と落胆に暮れている暇はなかった。外事警察の次なるターゲット、サベリエフによってエージェントとして獲得、育成され、安全保障に直結する重要情報を漏洩した東芝系子会社の社員への刑事処分に向け、捜査は続いた。
さらに、この年の8月の人事異動で瀬川警備局長は勇退した。自分にとってはいささか唐突な人事なように思えた。後任には、かつて外事課長、警備企画課長としてお仕えした小林武仁氏が着任した。
小林警備局長は、幾多の公安、外事事件を指揮してきた泰然自若とした人物で、いかなる情勢下でも、捜査には最善を尽くすようにと、常に背中を押してくれた。また、外事警察に理解が深い漆間巌警察庁長官も、私の報告を淡々と、しかし、十分な熱意で受け止めてくれていた。
プーチン来日直前に送検
2005年11月21日、来日中のプーチン大統領は、小泉純一郎内閣総理大臣との首脳会談で、笑顔を見せていた。
会談では、2003年に小泉総理とプーチン大統領が採択した「日露行動計画」に基づく協力の強化や、北方領土問題、戦略的対話の開始から拉致問題での協力まで9項目の確認・合意がなされた。特に、「実利主義」であるプーチン大統領に対する経済界の期待は大きく、経済貿易とエネルギー分野での協力は目を引くものがあった。
当時の会談結果の概要を見ると、我が国のプーチン体制、“新生ロシア”への期待の大きさがうかがえる。
《両首脳は、日露間の貿易高が拡大している(今年100億ドルを突破する見込み。)ことを歓迎した。両首脳は、ロシアのWTO加盟に関する日露二国間交渉の妥結を確認した》
《両首脳は、太平洋パイプライン・プロジェクトを早期かつ完全に実現するための日露の協力について、来年のできるだけ早い時期までに政府間の合意を目指すことで一致した。今回、この内容を盛り込んだエネルギー協力に関する文書を、麻生外務大臣・二階経済産業大臣とフリステンコ産業エネルギー大臣との間で署名した》
警視庁外事第一課は、2005年9月12日、東芝系子会社の社員を事情聴取。社員は、サベリエフの求めに応じて、会社の秘密情報を提供していたことを認めた。そして、10月20日、外事第一課は所属会社に損害を与えた背任事件を、被疑者サベリエフとして東京地検に書類送致した。
それは、日露首脳会談でプーチン氏が来日するちょうど1カ月前のことだった。外交に与える影響を最小限にとどめつつ、一方で日本はスパイ活動を徹底的に監視し、許さないという我々の意思表示でもあった。
(北村 滋/ノンフィクション出版)