女優のように美しくなくても、天才でなくてもいい…「5人の皇后さま」から考える「悠仁さまのお妃選び」

天皇陛下と対等とされる皇后陛下の地位は、もともと東洋の伝統にはなく、単なる君主の正妻にすぎなかった。しかも、日本では平安時代から江戸時代まで、生前退位(譲位)が一般化し、若くして、独身のまま退位する天皇も多く、皇后の肩書きも南北朝時代から使われなくなくなっていた。
明治に復活したのは、生前退位がなくなるなど古代への復古ということもあるが、むしろ、西洋にならったものだ。同様に西洋の制度にならって「両陛下」という呼び方も確立した。奈良時代には、皇后を「陛下」とは呼ばなかったのだ。大正天皇からは側室制度もなくなり、皇位継承者を成すことの重要性も高まった。
奇妙なことに、日本では皇室の人々の私生活については結構厳しく論じられるのだが、公的な部分についてはほとんどされない。また、ほかの皇族への批判はやりたい放題である一方、両陛下についてはいつの時代でも及び腰だ。
しかし、古今東西、君主やその妃の公的な側面こそ、政治的な関心事のはずだから本末転倒も甚だしい。たとえば、上皇陛下の御退位についての諸問題など、陛下のご希望なのだから尊重しなくてはという方向に安直に流れたが、象徴天皇の根幹にかかわる問題なのだから政治的に議論すべき問題だった。
きちんと議論がなされないのでは、皇室はどうあるべきかという哲学も深まらないし、皇族やお妃の教育、結婚についても過去の教訓が生かされないはずだ。
そこで、今回は基礎知識として、明治天皇の昭憲皇后から雅子さままでの5人の皇后陛下を紹介し、とくに公的な側面における功績や課題を考えてみたい。それは、来るべき、悠仁さまのお妃探しの際に十分に配慮すべきポイントになるだろう。
明治天皇の皇后となった一条美子(はるこ)さんの実家は五摂家のひとつである。1869年(明治元年)に女御(江戸時代には天皇の正妻的な女性をこう呼んだ)となり、すぐに皇后となられた。天皇より3歳上だが、天皇が15歳という若年で践祚(せんそ)されたので、即戦力として好ましかった。
美しく聡明で、父が良い教育を施していた。天皇には、やんちゃで気むずかしいところもあったのを、上手になだめつつ、こまやかな気配りで補完された。
女子教育にも熱心で、華族女学校(現・学習院女子高等科)や東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、津田梅子らの留学などに尽力された。
昭憲皇后が守旧派的な女性だったら、日本の女性の地位はだいぶ遅れたままになっただろうし、日本の国際的なイメージも悪くなったはずだ。日本赤十字社に援助をされ、アメリカで赤十字国際会議が開かれたときにも多大な寄付をされた。
文明開化に前向きで、宮中の服装を洋装に改め、写真が嫌いだった明治天皇と違って、多くの肖像写真を残された。その一方、歌人としても高く評価されている。
お子さまは望みがたいという判断が早いうちに下り、側室が置かれた。大正天皇の生母は側室の柳原愛子さんだ。
1912年に明治天皇が崩御されて皇太后となった。1914年に崩御されたとき、皇太后も死後は皇后と呼ばれるべきところを、事務的なミスが原因で昭憲皇太后と呼ばれている。
大正天皇の病弱を心配された明治天皇らは、早くしっかりした妃と結婚させたほうがよいと考えた。そこで、学習院教授だった下田歌子(林真理子の小説『ミカドの淑女』のモデル)が、容姿や知性などいずれをとっても申し分ないと、伏見宮禎子女王を推薦した。
しかし、宮廷医ベルツが胸部に疾患があるとし、ピンチヒッターとして白羽の矢が立ったのが九条節子(さだこ)さんである。両親は左大臣・九条道孝と側室だった家臣の娘で、高円寺の農家に里子に出されてたくましく元気に育った。
貴族的な顔立ちではなく、やんちゃだったので当初はお妃候補でなかったが、健康と多産系が重視されて浮上した。
大正天皇の病状が悪化する中でも、貞明皇后の献身は見事だったし、天皇が心身の状態を回復され、帝位に就くことができたのは皇后の功績だ。
ただ、保守的な価値観で、皇太子時代の昭和天皇の外遊に執拗に反対されたことは政府を困らせた。また、大正天皇のご病気は神に十分に祈らなかったためとして、昭和天皇に神事に取り組めと強く意見されたことは賛否があるだろう。また、周囲に怪しげな宗教の信者がいて影響が及んだこともあった。
貞明皇后は、昭和天皇をはじめ4人の親王をお産みになり、よく教育された。学習院の授業参観などしてお妃候補の品定めをし、次男の秩父宮などの妃には才気煥発(かんぱつ)な女性を選ばれたが、皇太子の昭和天皇には宮家出身でおっとりした久邇宮良子(ながこ)女王(香淳皇后)を選ばれた。冬に水掃除のために手が荒れているのを見て気に入ったというように、道徳性とか人柄の円満さを重視された。
母系の島津家に由来する色弱(現代ではほとんど問題にならないが、当時は軍人としての適性などが心配された)を心配して、山縣有朋らが疑問を呈し、一時は辞退を促す声もあったが、昭和天皇の意向もあり予定通りとなった。
昭和天皇との夫婦仲は極めて良く、7人の子をなされ1人を除いて成長した。戦中・戦後の苦しい時期には質素な生活によく耐えられ、皇后の笑顔は国民を安心させた。
長女で両陛下がとくに頼りにされていた東久邇成子さんに癌で先立たれたのにはショックを受けられ、衰弱が目立つようになった。医療体制の不備もあって腰椎骨折の治療が十分にできず、昭和天皇の大喪の礼にも欠席されるほどだった。
歴代の皇后中、最長の在位(62年と14日間)を記録され、「香淳皇后」と追号された。
貞明皇后は、自分と同じように皇室の強い女将さん的な役割もできるように鍛えようとされたが、おっとりした香淳皇后には不向きだったようだ。ただ、家父長的な君主である昭和天皇のもとでは、皇后が主導権を取る必要はあまりなく、内助の功を果たすことで十分だったといえる。
現上皇陛下のお妃選びにあっては、戦後の混乱のなかで、在来型の宮家や五摂家やそれに準じる家から適当な候補を求めることが難しくなっていた。
そんな中で、一般華族とか学習院卒業生に候補が広げられたが難航し、財界人の家系でカトリックの学校出身の正田美智子さんに白羽の矢が立った。皇太子殿下(当時)とはテニスを通じて面識があり、殿下は好感を持っておられたのだ。
それまでは民間から皇后が選ばれたことはなかったこともあり、はじめはお妃候補とは考えられなかったようだが、お妃選びの責任者だった小泉信三氏が、思い切って根回しをはじめた。
当時は見合い結婚が一般的で、良家の子女同士で釣書が出回り、見合いを盛んにしていた中で、美智子さまは人気抜群だった。聖心女子大学英文科で学ばれ、美人で、成績も抜群、全学自治会会長を務めるほど人望があるし、語学もできてスポーツ万能と、理想のお嫁さん候補としてお見合いの申し込みが殺到していた。作家の三島由紀夫ともお見合いをしたという。
容姿、知力、気配り、ストイックな倫理観などにおいて抜群で、国民的人気には比類ないものがあるし、陛下の相談相手として多くの良い影響を及ぼされた。
ただ、正田家は実業家一家で、母親も商社マンの娘として上海で育ち、華族社会とはまったく接点がなかった。結局、旧華族社会との齟齬(そご)は完全には克服できず、それが皇室の女将さん的な役割を貞明皇后のようには果たせなかった原因となり、そうした厳しい状況についての評判が、子どもたちの結婚の難航にも影響したのは事実だ。
また、あまりにもストイックな公務への姿勢は、今上天皇ご一家も含めたほかの皇室の人々にとって重荷になっているともいえるし、批判を非常に気に病まれることが、健全な批判すら封じていたところもある。
雅子皇后は、皇太子妃時代は厳しく批判され、皇后になられたら絶賛の嵐となったが、いずれも極端すぎる。ご体調がゆえに、内外の公務の量が上皇ご夫妻の時代に比べて、控えめなものに留まっていたり、直前まで決まらなかったりしているのは現実なのだから、現状をよしとするのでなく、もっとご活躍される可能性を広げるお手伝いになる応援の仕方をするほうが建設的だ。
今上陛下の結婚は難航することが予想されていたのに、宮内庁など各方面が先回りして自然な出会いの場を工夫するなど準備することもせず、無為無策だった。陛下は母親である美智子さまに遜色のない素晴らしいお妃を求められていた印象がある。
その結果として、エリート外交官の娘で、卓越した学歴の女性外交官である小和田雅子さんに白羽の矢が立ち、国民も素晴らしい選択だと絶賛した。
ただ、皇太子妃に求められるのは外交での活躍だけではない。雅子さまご本人にとっては予想外なことも多かったかもしれないが、お妃となるさまざまな厳しさは、総理秘書官や外務事務次官まで務め頭脳明晰な父・小和田恆氏なら分かっていたはずだ。それを雅子さまに説明し、準備してもらえていなかったように見えるのは、小和田氏の用意周到な仕事ぶりに直接、接した経験から不思議な気がする。
当時、雅子さまの同僚の外交官らの中には、饒舌で積極的なやり手である父親と違って、雅子さまは自己主張を内に秘めるシャイなタイプであり、世間で持たれているタフで社交的な女性というイメージとずれがあると心配する人が多かった。
そうしたギャップも一因となって、思い描いておられたイメージと違う状況が生じ、陛下の「雅子さまの人格否定発言」とか、適応障害によるご静養に至った。
過去のことはともかく、いまの状況に前向きに対処するにはどうすればいいかは、はっきりしている。美智子さまのような極端にストイックな姿勢や当意即妙の受け答えに無理にチャレンジするのでなく、雅子さまのじっくりと練り上げられるのが得意だという長所を生かすことだ。
さらに、ご体調を前提にした公務の方針を国民に説明し、ご無理をなさらないようにして、量は少なくとも質の高い国際交流や精選した公務への登場機会を選ばれたらいい。また、ビデオやネットを活用した単独公務も工夫すべきだ。
素晴らしい頭脳や国際経験を生かして陛下の公務やお言葉の内容を吟味されたり、皇室外交をはじめ公務についての企画立案をされたりするなど、お得意の方面において類いまれな才能を生かされれば素晴らしいことだ。
悠仁さまのお妃選びについては、「あえてマスコミの洗礼を受けたほうがいい…悠仁さまの結婚では『事前に交際宣言をすべき』と考える理由」でも書いたが、ともかく先回りすることこそが重要だ。
企画チームでも組んで、未来の皇后に向いた条件は何かを議論し、条件に合った多くの女性と会われる機会が増えるような工夫をすることである。
そういう意味でも男子校である学習院でなく、お茶の水女子大学附属中学から筑波大学附属高校という男女共学の学校へ通われたのは、賢明な判断だったと思う。
私が推奨したいのは、突出した素晴らしい女性でなくともよいのであって、悠仁さまを守ってくれるような、メンタルも体力も強靱(きょうじん)なタイプの方だ。
イギリスのキャサリン妃は中流階級の出で、頭脳や容姿が突出しているわけではないように思う。ウィリアム王子より半年ほど歳上だが、無理をしない安定したキャラクターで彼女を選んだのは大正解だった。
皇后は女優のように美しいとか、超一級の頭脳をもっている必要はないし、親の社会的地位が高くなくてもいい。昭憲皇后や貞明皇后の功績からわかるように、天皇をしっかり支えてくれることが大事なのだ。
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(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)

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