戦後8年間、米軍統治下に置かれた鹿児島県・奄美群島で、日本復帰運動をリードした詩人、泉芳朗(ほうろう)(1905~59年)の歩みを伝える活動に親族が取り組んでいる。非暴力と不服従を貫き「奄美のガンジー」と呼ばれた運動家の素顔などを知ってもらうため、日本復帰から70年の25日、奄美大島で住民の前に立った。
泉は鹿児島県・徳之島生まれ。師範学校卒業後、奄美地方の小学校長などを務めながら詩作に励んだ。復帰に向けて51年2月に結成された「奄美大島日本復帰協議会」の初代議長に就任すると、運動では平和主義を貫くことを呼びかけた。52年9月には名瀬市(現・奄美市)の市長となり、吉田茂首相らに直接、祖国への復帰を訴えた。
泉の弟の長男で会社員の宏比古(ひろひこ)さん(65)=相模原市=が伯父について語ろうと思ったのは10年前、泉の詩集再刊行に関わったのがきっかけだった。泉は宏比古さんが1歳の時に亡くなっており直接会ったことはなかった。作品をじっくり読み「伯父のことをもっと知りたい」と思うようになったという。
茨城県取手市の実家を探すと、父が保管していた泉の肉筆原稿が数多く残っていた。走り書きのようなものも多く、時間をかけて読み解いた結果、泉が名瀬市長に就任した頃の日記や未発表の小説、詩と分かった。
日本復帰を願い5日間の断食に臨んだ際の「断食悲願」や、占領の不条理にも揺るがない雄大な奄美を描いた「島」など、島民を勇気づけた作品で有名な泉。しかし未発表の詩には、妻や母など家族への思いを述べたものもあり、違う一面を見せている。
心打たれた作品の一つが、母の最期を描いた「わが愛する母に」だ。<お話することがたくさんありました わたしは異郷にあまりに永く住みましたが しかし 私をいちばんよく理解するのは あなたでした、どんなときも>。49歳で母を失った泉が、幼子のような心情を吐露していた。
「人間・泉芳朗の素顔を伝えたい」という思いが奄美の顕彰団体「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」(楠田哲久会長)にも通じた。会は2022年12月、作品などをまとめた「奄美のガンジー 泉芳朗の歩んだ道」を発行。市長就任から約2カ月の動静を記録した「名瀬市長日記」も収められ、東京に派遣する復帰陳情団の旅費捻出に苦慮したことなど運動の裏側を明らかにしている。
25日に奄美市で講演した宏比古さんは、泉について「新しもの好きで外面がよかった。だから人とコミュニケーションするのが得意だったのだろう」とし、決して特別な存在ではないと紹介した。「今も米軍基地が存在する沖縄と違って、奄美の復帰運動は昔話になろうとしている」と語る宏比古さん。平和的に問題解決を目指した伯父たちの歩みは紛争の絶えない現代にも生かし得る――。そう信じ、伝承への思いを強くしている。【取違剛】