女性の指を切り落とし、その夫をメッタ切りに…残忍すぎる強盗殺人がなぜ不起訴に? ミッションスクールで起きた「ラージ殺人事件」とは

明治は日本の近代化が進み、「世界の一等国」として「坂の上」に上り詰めた時代といわれる。しかし、日本社会の根底には、国際的に見ればまだまだ遅れた体質が根強く残っていた。今回取り上げる「ラージ殺人事件」は、そうした国際感覚の欠如が表れた出来事といっていい。
2人組の強盗が開校間もないミッションスクールに押し入って、カナダ人教員のトーマス・A・ラージ氏を殺害。その妻であり校長のイライザ・S・ラージ氏も指を切り落とされる重傷を負った。いったん迷宮入りしたが、日本とイギリスの同盟締結をきっかけに再捜査が行われて「犯人」が判明。真相が解明されたものの、当時の法制度によって時効・不起訴となった。この過程では警察の場当たり的な捜査とずさんな新聞報道が目立った。根本にあったものは――。
今回も当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全2回の1回目/ 続き を読む)
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ミッションスクールでカナダ人教員の夫妻が切りつけられた
1890(明治23)年4月6日付時事新報の事件第一報はこんな見出しだった。
「兇(凶)賊英和學(学)校の教員を殺害す」
他紙も同じ日付で報じたが、文章が分かりづらかったり、データが誤っていたりしていてひどく、比較的まともな時事新報を選んで紹介する。記事はこう続く。
〈 一昨4日、午後11時30分ごろ、麻布区(現東京都港区)東鳥居坂町14番地、東洋英和学校構内の教員、英領加奈陀(カナダ)人シイ エ ラアーヂ氏(32)が住んでいる教官舎の台所脇の物置のような所から強盗2人が抜刀で押し入った。小使部屋に来て宿直の瀬川喜兵衛(50)を呼び起こし、「金のありかを言え」と脅迫したが、喜兵衛は驚きつつ、「金は隣室のドル箱にあり、鍵は2階で寝ている教官が持っている」旨を伝えると、「では、そこまで案内しろ」と、喜兵衛をあり合わせの細帯で縛り上げ、先に立たせて階上に上った。

喜兵衛は教員室の手前で「あの部屋だ」と指で知らせると、賊はそのまま部屋の戸に手を掛けた。教師の運が尽きていたのか、その夜に限って不幸にも入り口の錠がかかっていなかったとみえ、造作もなく開いた。都合がいいと賊2人が中をのぞくと、その時は灯火は消えていて一寸先も見えない暗闇だったが、賊はつと踏み入り、同氏を起こして脅迫した。〉
カナダは正確には1867年にイギリスの自治領になっていた(1931年に実質的に独立)が、日本では無名だったのだろう。東京朝日(東朝)、郵便報知は「米国(アメリカ)人」と誤記。
当時は警察の公式発表もなく、事件記者は知り合いの刑事らから情報を聞いて記事を書くのが普通だったから、間違いが多かったし、そもそも事件記事はその程度の正確さしか求められていなかったともいえる。
妻は指を切り落とされ重傷、夫は全身13カ所を切りつけられて亡くなった
〈(ラージ)氏は応じる様子もなく、「おまえたちの来る所ではない。さっさと立ち去れ」と言い放ち、二、三押し問答をしながら戸外へ押し出したが、賊はもはやこれまでと思ったか、同氏めがけて無二無三に切りかけた。頭部をはじめ胸、肩、背中、腕あるいは手先など計13カ所に重傷を負わせたため、どうしてこらえることができよう。そのままドウと廊下へ倒れ、無残な最期を遂げた。

夫人シイ・エ・スペンサア・ラアーヂ氏(35)=同女学校長=は最初から部屋の片隅にひそんでいたが、夫が賊に斬殺されたのを見てさらに驚いて走り出ようとするのを見て、賊は女性の右の額にかすり傷を負わせたうえ、なお切りかかる刃に(夫人は)右の中指と人差し指を切り落とされた。こうした騒ぎに構内の寄宿生二百余人は教官舎が火事になったのだろうと一同、声を出して飛び起き、駆け付けてきたため、賊は慌てうろたえ、1人ははしご段を踏み外して転落。何一つ奪えず、いずこともなく逃げ去った。〉
名前も、当時はアルファベット表記がなかったこともあって、新聞の記述は非常に不正確だ。『東洋英和女学院百年史』によれば殺害された夫は「Thomas Alfred Large」、つまり「T.A.ラージ」が正確な表記。女性の方も同書に従えば「Eliza Spenncer Large」(E.S.ラージ)。「Spencer」は旧姓を残したものだった。以後、文中では夫をラージ、負傷した妻をイライザと表記する。
時事新報の記事は警察の捜査に進む。この書きぶりからは、警察も新聞も捜査がそれほど難航するとは見ていなかったことがうかがえる。
「捜査員は活発に奔走」「近いうちに逮捕されるだろう」
〈 訴えからその筋でも容易ならぬこととしてすぐに非常線を張り、逮捕に手を尽くした。警視庁からは三橋二局長、山田警察本署長、赤羽麻布警察署長はじめ警部、巡査ら十数名が現場に出張。東京軽罪裁判所からは小林予審判事が横山検事、清水書記を従え、臨検のうえ、遺体は家族へ引き渡し、夫人は日本駐在の英国公使館付き警官の介護を受けることになった。

警視庁と外務省の連絡も昨日朝以来頻繁で、ラージ氏を知る内外の人々は学校を訪れて弔意を述べるなどしているため、取り込んでいるという。捜査員は活発に奔走しているので、近いうちに逮捕されるだろう。曲者の1人は年齢22~23歳で中肉中背、顔は長め。もう1人は26~27歳で背は低い方。服装ははっきりしないが、2人とも黒の回し合羽を着て襟巻きで顔を包み、浅黄色のももひきに白足袋で仕込み杖を持っていたという。〉
同じ6日付の他紙では郵便報知がかなり詳しく、現場の学校と被害者について次のように書いている。
〈 英和女学校は登校生徒二百余名。遠方の者は寄宿して教えを受けているのも多い。先月29日から1週間の春休みで、いずれもわが家に帰り、後には外国人教師と使用人らだけが残っていた。

教師の中にも休み中、普段の疲れを癒そうと箱根の温泉に行った者もあった。ラージ氏も夫人とともに参加しており、土曜日の5日に帰京する予定だったが、東海道の汽車が今回の演習帰りで一般乗客の乗車を制限するため、混雑を避けようと4日夜帰京した。普段寝起きしている校長室に入り、旅の疲れで居間の戸締まりも忘れて寝入ったらしい。

同校の構造は堅固な西洋建築で、内部の四方に廊下を巡らし、3人の使用人が毎晩2人ずつ宿直。交代で警戒する決まりで、当夜は当番の喜平が午前0時に一回りして居間に帰ってきた時に賊2人が現れた。

同(ラージ)氏は北米カナダの生まれで、日本に来て5年。生徒に対しては極めて懇切丁寧で、日本人青年子弟で氏の恩を受けた者も少なくない。同校では3日間休校とし、あす(7日)、学校内で葬儀を執行。埋葬するという。〉
郵便報知は「喜平」と表記しているが、以後「喜兵衛」で統一する。当時、明治天皇、皇后が出席した陸軍の大演習が名古屋であり、その帰途で現在の東海道線が混雑していたようだ。この年は7月に第1回衆議院選挙が行われ、10月に教育勅語発布。11月には大日本帝国憲法が施行されて国会が開会した。一方で、足尾銅山からの鉱毒被害が問題になり始めていた。日本が天皇制近代国家としての体裁を整える裏側で矛盾も顔をのぞかせていた。
事件現場に落ちていたタバコ入れ
同じ4月6日付で注目すべきは読売の記事の末尾。「(賊が)逃げ去った後には『かますタバコ入れ』が1個落ちており、中にはナタ形のキセルと鉛筆が入っていたというが、どんな素性の大悪人であろうか。遠からず天網にかかるに相違ないだろう」。
「かますタバコ入れ」とは、むしろを袋状にして穀物や石炭などをいれた「かます(叺)」の形をしたタバコ入れのこと。「ナタ形」は「ナタマメ(鉈豆)形」の誤りで、なたまめのさやに似た太く短い金属製のキセル。4月8日付東朝は「この品は車夫などの持つべき粗末な物ではない」と、差別的な表現で高級品であることを示した。なめし革を使った「印伝」で、このタバコ入れが事件解明の大きな鍵となる。
7日付の郵便報知は被害者に関して第一報よりさらに詳しく書いており、恨みを買うとすれば妻の方だろうという見方をしている。
〈 ラージ氏が日本に渡ってきたのは明治19(1886)年ごろで、生国カナダのビクトリア大学で技芸得業生(バチェラー・オブ・アーツ)=学士=になったのは、日本に来る少し前。来日後は今日まで神学得業士(バチェラー・オブ・ヂヴィニチー)の受験勉強中だった。

夫人も同じくカナダ生まれだが、結婚は来日して間もなくで、同氏が校長になった時だという。宗教家とあって性質は温厚勉励で親切心が深い一方、快活な方で、人から恨みを受けるはずはないだろうという。賊は金銭目的だろうが、強いて私怨とすれば、夫人の性質が最も規律正しいこと。もし不正行為をする者があれば少しも見逃さず、厳しく進退を処置するため、生徒や使用人らで放逐された者が間々あり、これらから「放逐した者に生きる道を与えなければ身のためにならない」というような脅しめいた手紙が送られたことがたびたびあった。ただ、最近のことではない。〉
さらに記事は言う。
警察も記者も知らなかった?
〈 夫人は非常に沈着剛毅な人で、(事件の時)物音を聞きつけて走ってきた教師、寄宿生その他が狼狽しているのを、自分も夫を助けようとして重傷を負いながら屈する色もなく「静かに静かに」と制し、おもむろに警察への届けや医師を迎えに行かせる手続きを抜かりなく言いつけた。現場付近は人家も集中しているが、近所の人は一人も異変を知らなかった。

夫人もメソジスト教徒でラージ氏より前に来日したが、先年病気にかかった時、友人知人は皆帰国を勧めたが、同意せず、「日本で志した事業が成功しないうちは死んでもこの地を去りはしない」と語った。その後、ラージ氏と結婚した。〉
この郵便報知も含めて各紙は、被害者夫妻と東洋英和学校、東洋英和女学校の表記や関係などで誤りが非常に多い。ラージ氏は実際は宣教師で、男子のみの東洋英和学校の教師だったが、同校や東洋英和女学校の校長と誤った新聞もある。当時はほとんどの日本人が海外に関する知識が乏しく、キリスト教系のミッションスクールのことなど、警察も記者もデスクも知らなかったに違いない。
事件関係の資料もほぼ同様だ。1934年に刊行された『東洋英和女学校五十年史』と1984年の『東洋英和女学院百年史』から学校の経緯を確認しよう。
「事務的才能に優れていた」イライザ
カナダのメソジスト教会伝道局は1873(明治6)年、創立50周年事業として外国伝道の開始を決議。ジョージ・コクラン、デビッドソン・マクドナルドの宣教師2人を日本に送った。2人は東京、横浜、静岡で布教伝道活動に従事。日本人信徒を増やした。
1882(明治15)年、新たに女性宣教師マーサ・カートメルが来日。布教を続けるうち、学校設立の必要が叫ばれるようになった。東京・麻布に土地を購入。1884(明治17)年、東洋英和学校と東洋英和女学校が前後して隣接地に設立された。イライザ・スペンサーはオンタリオ州パリス出身。トロントの市立高等中学校を卒業後、教職に就いていたが1885(明治18)年2月、2人目の女性宣教師として来日した。東洋英和女学校では家事・英語・唱歌を担当。その年の秋には病弱のカートメルの後を継いで2代目校長に。「特に事務的才能に優れていた」(『百年史』)とも、「極めて行政的才能に長じ」(『五十年史』)ていたともいわれる。1887(明治20)年7月、ラージと結婚したが、依然校長の職に留まっていた。
ラージの葬儀は4月7日午後3時、麻布教会堂で営まれた。東洋英和学校、東洋英和女学校の両校の生徒、教師ら700~800人が参列したと8日付の各紙にある。やまと新聞にはちょっと気になる短信が。「田中警視総監(※土佐藩出身でのちに宮内大臣などを務める田中光顕)は昨日午前、各警察署長を召集し、協議を遂げた。たぶん麻布鳥居坂町の殺傷事件に関することだろうという」。
翌9日付東京日日(東日=現毎日新聞)は「一昨日、警視第二局長から各警察署長への内示によれば、賊は多少負傷していると考えられることから、開業医についても十分注意しておくべきだという」とあり、2つは同じことを指しているのか。
東日の同じ紙面には「ミセス・ラージ女史の来翰(らいかん=届いた手紙)」の見出しの記事が。イライザが「種々のご高配に感謝申し上げる」と日本のメディアを代表して東日に書簡を寄せたらしい。「事務的才能に優れている」ことがうかがえる。
「日本は野蛮国ではない」と強調
4月9日付読売は社会面トップで「鳥居坂の兇変に付当局者の心配」という記事を載せた。
〈 このたびの凶変がもし20年の昔に起きていたら、外国政府は兵と艦艇で日本海に入り、強く談判して賠償金を請求していただろうが、外交の道が開けた今日では、このことが外国との交渉事件となるべきはずはない。ゆえに外務省の職務としては別に面倒なこともなく、外交に関係することはもちろんないが、一つ心配なことはラージ氏が宣教師であることだ。

氏の本国の教会がこの変事を知れば、宣教師らは布教や献金集めのため土地の老若男女に「日本人はわが教会の宣教師を殺した。そのような殺伐として危険な国に教師を派遣している熱心に感じて、応分の喜捨をすべきだ」などと哀れげに演説して感動させることは必然。つまりは、日本人をよく知らない人々が日本を見るのに、野蛮で無知なアメリカ人のようだとして、条約改正の件にも影響を及ぼさないとは保証できないと当局者は心配しているという。〉
回りくどい説明だが、言いたいことは分かる。しかし、本当に外交問題にはならないと見ていたのだろうか。郵便報知は4月9日の社説「外人の横死を悼む」で事件を取り上げ、幕末維新に外国人を排斥したのとは全く違って、「ラージ氏の境遇は決して身を野蛮の境に没したるにあらず」と日本は野蛮国ではないことを強調。読売も10日の社説で同様の主張をしたが、その中では「条約改正にも影響を及ぼすことがないかと気遣う者もあり……」と記した。
「条約改正にも影響する事件として政府も重大視していた」
幕末に江戸幕府が諸外国と結んだ条約は治外法権、協定関税率制度、最恵国待遇など屈辱的に不平等な内容で、明治維新後、改正を求める動きが続いた。促進のため井上馨外相を中心に鹿鳴館に代表される欧化政策がとられ、日本でのキリスト教はそれによって布教を拡大。ミッションスクールも勢いを増した経緯がある。
しかし、内外の情勢もあって交渉は遅々として進まず、この事件前年の1889(明治22)年には、内閣が進める改正交渉が「亡国的」として大隈重信外相が爆弾を投げつけられて負傷する事件も起きていた。影響が危惧されたのは当然だろう。
警視庁の正史である『警視庁史第1(明治編)』も「事件は、日本警察の国際的信用の上からも、また、当時問題になっていた条約改正にも影響する事件として、政府においても重大視していた」と書いている。
時事新報の第一報でも警視庁と外務省が頻繁に連絡を取っていたことが分かるが、「裁判医学雑誌」1890年4月号は事件を取り上げた中で「赤羽外務大臣秘書官は司法省へ出頭。箕作次官及びその他と協議せられ……」と書いている。
赤羽秘書官とは会津藩出身の外務官僚・赤羽四郎、箕作次官はのちに貴族院議員となる法学者・箕作麟祥だ。当時は第一次山縣有朋内閣で、外相は長州藩出身の青木周蔵。彼が赤羽に指示して司法省と連絡をとらせたのだろう。司法大臣は同じ長州藩出身の山田顕義だから「ツーカー」だったはず。青木は長く条約改正交渉に従事しており、事件による国際関係の悪化を危惧していたのは間違いない。
4月10日付東日は「ラージ氏殺害事件余聞」としてこんなことを書いている。「ラージ氏を殺害した凶賊が小使を縛りつけ、金庫の所在を尋ねたと前に書いたが、それは誤聞で、小使は賊が刀を抜いて侵入したため強盗だろうと狼狽して『金庫の所在は隣の部屋だ』と言ったが、賊は金庫の所在は後にして『校長の寝室に案内せよ』と言ったので、すぐ案内したそうだ」。
こうした経緯のためだろう。元検事が書いた小泉輝三朗『明治犯罪史正談』は「喜兵衛は驚きのあまりぼうぜんとして、ほとんど賊の人相風体を語ることができないばかりでなく、ミセス・ラージ(イライザ)がこの小使を疑って、これが賊の手引きをしたのではないかと言った」と述べる。しかし、喜兵衛に怪しい点はなく、疑いはすぐ晴れた。
犯人逮捕への協力で“懸賞金”も?
10日付の読売と郵便報知、時事新報は「犯人を警視総監に密告する者があれば300円以上の賞金が与えられるともいわれる」と懸賞金が出たことを示唆した。当時の300円は現在の約168万円。3紙は「外国にも例がある」と書いているうえ、時事はイライザも100円(同約55万円)の懸賞金を申し出たと記した。事実だとすれば、これが日本の事件捜査で懸賞金が懸けられた最初のケースだったかもしれない。
4月11日付東朝は1面に「嫌疑(者)拘引」の記事を掲載。時事新報、やまと新聞も同様の記事を載せたが、どんな人物かはいずれも不明。郵便報知の13日付では、タバコ入れの捜査から浮上したらしい陸軍将校付き馬丁(乗馬用の馬を世話する使用人)2人が嫌疑者として登場。14日付では日本刀を持って強盗に入り、逮捕された男がラージ殺しとの関連でも調べを受けていると書いた。
嫌疑者が現れるも「シロ」で迷宮入り
17日付の郵便報知と時事新報には、嫌疑者が仙台で逮捕されたとの情報が載り、18日付時事は「既に嫌疑者十数名引致のうえ、目下取り調べ中だが、まだ十分な証拠も上がらぬようで、おいおい釈放する者もある」と書いた。以後も千葉県や埼玉県で嫌疑者が現れるなどしたが、いずれも「シロ」。
1892(明治25)年には、詐欺のため静岡県で服役中の男がラージ殺しを自供。実名で報じられ東京へ移送されたが、調べの結果、自供は全くのウソと判明した。ほかにも有力とされた嫌疑者がおり、のちに「真犯人」が判明した際には複数の新聞が「3人が起訴された」と書いた。だが、事件はそのまま迷宮入りとなった。
〈 体中を切られて死んだ夫、不起訴になった「犯人」…事件に巻き込まれたカナダ人妻が語っていた“疑問”と“世間の空気” 〉へ続く
(小池 新)

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