[能登地震 検証]<4>
能登半島の上空を飛行する海上自衛隊の哨戒機「P1」の搭乗員11人は、異様な光景を目にしていた。
真下に見えるはずの市街地は闇に包まれていた。「明かりがともっていない。停電が起きているのか」。搭乗員の上野剛毅2尉(29)は心の中でつぶやいた。
機首には夜間用の赤外線カメラを装備している。その倍率を上げると、倒壊した建物や道路を遮る土砂も映った。
山の向こうからでも輪島の空が赤く染まっているのが見えた。6時間の偵察中、石川県輪島市内の火災は2度確認した。「相当な被害が出ている」。機長の松田和人3佐(44)は窓の外に目を凝らした。
最大震度7を観測した能登半島地震が起きたのは日没が迫る元日の午後4時過ぎだった。能登地方は2007年と23年にも震度6強クラスの地震に見舞われたが、死者は1人ずつ。発生直後、政府内には「被害は軽微ではないか」との希望的観測さえあったが、「道路の寸断で被害状況の把握もままならない」といった情報が次々と寄せられた。
岸田首相も1日午後5時頃、能登地方を地盤とする自民党の西田昭二衆院議員との電話で、「昨年の地震とは揺れが全く違う。能登を助けてください」と窮状を訴えられた。
政府は、同日午後5時30分に「特定災害対策本部」(本部長・松村防災相)をいったん設置。首相は「空振りでも構わない」と判断し、約5時間後に首相をトップとする「非常災害対策本部」に格上げした。
この夜、東京・永田町にある首相官邸執務室では首相の怒気をはらんだ声が響いていた。
「何としても今晩中に自衛隊や警察を送り込め」
災害発生時、自衛隊は地元自治体からの情報提供に基づき、捜索や救難活動を行う。今回は交通網と通信網が寸断され、初動対応の「定石」は通じなかった。
実態把握が難航したのが、最も多くの孤立集落が出た輪島市だ。全職員約280人のうち、元日に登庁できたのは約50人。自衛隊員がもたらす情報が頼みの綱だった。自衛隊員は崩れた土砂を乗り越えるなどして市内を駆け回った。孤立集落の数をほぼ特定できたのは、生存率が急激に低下するとされる「災害発生から72時間」が迫った4日朝だった。
備えの甘さも問われている。石川県の地域防災計画は「能登半島北方沖の地震」が起きた場合、被害は「ごく局所的で、災害度は低い」と推定していた。人口約2万3000人の輪島市は非常食を数千人分しか備蓄しておらず、発災初日で払底した。
県はここ数年の群発地震を受け、被害想定を見直そうとしていた最中だった。実際の被害との 乖離 による初動への影響について、馳浩知事は「全くない」との立場だが、対応の遅れは否めない。
交通網が 脆弱 で自衛隊の十分な配備が望めず、物資の備蓄も進んでいない地域は全国に多い。過疎化や高齢化が進む中、地震大国・日本が同様のケースに再び直面する可能性はある。
政府高官はこう語る。
「過去の災害にない課題が突きつけられた。いずれかの時点で検証し、教訓として生かすことが不可欠だ」
熊本地震とは対照的な条件
海上自衛隊の哨戒機「P1」が飛行していたその時、空自輪島分屯基地(石川県輪島市)には1000人もの住民が逃げ込んでいた。能登半島唯一の自衛隊の拠点にいたのは、わずか約40人の隊員だった。
副隊長の大出武志3佐(49)は、基地から約100メートル離れた自宅官舎で激しい揺れに見舞われた。「鉄筋コンクリートの官舎が倒壊する」とすら思った。
<大津波警報です>
防災無線から機械的な音声が流れ、住民は高台にある基地を頼った。若い女性が手をつないで泣いていた。寝たきりの高齢者を運ぶ住民や、頭から血を流す人、 巫女 姿の女性もいた。
日はすぐに没した。午後6時の気温は4・2度。隊員は分担して備蓄品の毛布や水を配った。午後9時頃、隣接する中学校への避難が可能になると、住民の誘導を始めた。
「倒れた家に取り残された人を助けてほしい」と懇願する住民もいた。輪島市役所に連絡したが、消防も警察も対応できないという。隊員10人がツルハシとノコギリを手に現場に走ったが、4人を救助するのが精いっぱいだった。
応援部隊の派遣は難航した。元日の夜、道路が寸断された輪島市は「陸の孤島」と化していたからだ。
地震発生から1時間後。陸自の金沢駐屯地(金沢市)では先遣隊20人が高機動車2台に分乗し、約100キロ離れた輪島、珠洲市に向けて出発した。地割れや陥没に阻まれ、輪島中心部入りを断念。 迂回 路を探すうち1台が動けなくなった。残る1台が珠洲市にたどり着いたのは翌2日の正午頃。すでに20時間近くたっていた。
今回の地震は、三方を海に囲まれた半島で道路が寸断された場合、救助部隊を送り込むことが一気に難しくなる現実を突き付けた。
石川県内で通行止めとなった道路は少なくとも42路線の87か所に上る。「半島北部では、ほぼ全ての主要道路が分断された」(県道路整備課)という。
被災地に西部方面総監部などが置かれ、6000人規模の部隊がいたうえ、四方から陸路で応援部隊を送り込むことができた2016年の熊本地震とは対照的だ。
能登半島地震で自衛隊は、輪島・珠洲両市にはヘリによる部隊投入を主軸にすることを決めた。翌2日までに10機以上が動き、約200人の隊員を両市に送り込んだ。警察や消防の部隊も運んだ。しかし、生存率が急激に低下する「72時間」となる4日に活動する自衛隊員は、約1270人にとどまった。
陸自トップの陸上幕僚長として東日本大震災(11年)に対応した火箱芳文氏は、「重機や車両がなければ、救助の効率は上がらない。今回は順次、部隊を投入していかざるを得ないケースだった」と見る。
ヘリでは重機の輸送は難しい。呉基地(広島県)を緊急出港した海自輸送艦が、ホーバークラフトで輪島市の浜辺に重機を陸揚げしたのは4日午前だった。
火箱氏は「道路が寸断された中でいきなり数千人を車両で送り込めば、渋滞などで大混乱が起きる恐れがあった」と強調する。
教訓は何か。名古屋大の福和伸夫・名誉教授は「南海トラフ地震では、紀伊半島や伊豆半島の先端に自衛隊や警察、消防が陸路でたどり着けないことも想定される」と見る。
最悪のケースで23万人が死亡・行方不明になるとされるこの巨大地震では、半島地域に津波が押し寄せ、火災が起き、ガスや水道などのインフラが破壊される恐れがある。
福和氏は警鐘を鳴らす。「災害の大きさに比べて自衛隊など救助のリソースが足りなくなる。自宅の耐震化や、食料や簡易トイレの備蓄など、自分の命は自分で守ることをもう一度肝に銘じることが必要だ」
能登半島地震で自衛隊は、4日も約4000人態勢で活動を続けている。南海トラフ巨大地震への教訓があるとみて、全ての任務を終えた後に、活動を検証する。