薄暗い店内に響く、軽快なブルース。リズムに合わせ腕を振り、場を盛り上げる男の姿は、神奈川県藤沢市の音楽好きが集まる飲食店の日常風景だった。身の上を語ることは少ないが、音楽の話には冗舌。「内田洋(ひろし)」と名乗るひげ面で眼鏡の男と「革命」を目指し過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバーとして連続企業爆破事件に身を投じた「桐島聡」を重ねる者は誰もいなかった。
「人が住めるような場所ではない」。今年1月、末期がんで、藤沢市の路上にうずくまる桐島を自宅まで送った近所の男性は、こう明かす。
玄関ドアをくぐると6畳ほどの板の間が現れ、奥には2階に上がる階段も。板の間にはストーブが2台あるほかは、足の踏み場もないほどの段ボールが散らばっていた。ここで桐島は潜伏生活を続けていた。
桐島は入院。余命いくばくもない重篤な状態で1月25日に「最期は本名で迎えたい」と病院側に名前を明かした。重要指名手配から49年で、ようやく姿を現したが、同29日に命が尽きた。
住み込みで土木作業
《表面上は、極(ご)く普通の生活人であることに徹すること》
桐島の潜伏生活は、東アジア反日武装戦線が作製した爆弾教本『腹腹時計』の一節に集約されているかのようだ。「内田」と名乗り、藤沢の工務店で住み込みで土木作業に従事。地域に溶け込み、銭湯帰りには酒を楽しんだ。
行きつけの店のマスターは「いつもべろべろで店に来て、赤ワインを1杯飲んで帰っていた」と振り返る。店主催のバーベキューに参加。スタッフに「恋愛相談」を打ち明けることもあった。「手配犯と同一人物なのだろうか」。いまだに疑う常連客もいる。
事件後はメンバーらと連絡は取らず、死の間際に捜査員に「ずっとひとりで暮らしていた」と明かした。
警視庁公安部は、文字通り「血眼」になって行方を追ったが、多くの長期逃亡者の潜伏先判明の端緒となってきた支援者らの存在がなく、糸口をつかめなかったとみられる。「警察の敗北」。東京の目と鼻の先といえる神奈川に潜伏を許し、そう語る元捜査員もいる。
そして、桐島は、49年もの「普通」の生活を続け、最期は「本名」を取り戻した。
警察から同級生に連絡
「内田」の知人らとは対照的に、「桐島」の知人らには、本名を取り戻した姿は身勝手に映る。
桐島が通っていた広島県尾道北高の同級生の男性は、手配直後から警察に「関係者」として扱われた。桐島は高校時代はおとなしいタイプで、特に親しく関わることもなかったが、警察からは何度も連絡があった。同窓会でもあれば、必ず「桐島の話が出たか」と確認してきた。それは、桐島が名乗り出る前まで半世紀にわたり続いた。「何も悪いことをしていないのに、われわれの人生には常に警察がつきまとった」。男性は唇をかむ。
男性ばかりではなく、単なる転居を「行方不明だ」と騒がれて所在を確認された級友もいた。桐島姓を名乗る親族の状況はもっと苛烈で、警察ばかりか周囲からの陰口の的にもなった。「なぜ逃げる必要があったのか。せめて一言、謝罪の言葉が欲しかった」。そう語る同級生もいる。
桐島の遺体は親族が受け取りを拒否。このまま引き取り手がなければ、無縁仏として埋葬される。(敬称略)
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連続企業爆破という未曽有のテロを起こし、自ら信じる社会の変革を成し遂げようとした「東アジア反日武装戦線」。彼らはどのような時代を生き、何を残したのか。革命の残滓(ざんし)をたどる。