街頭よりプロレス…小池百合子都知事が選挙期間中に仕掛けた“場外戦”はなにが問題だったのか

東京都知事選は7日に投開票がおこなわれたが、選挙期間中に注目された言葉があった。「公務」である。3選を目指した小池百合子候補がなかなか街頭(演説)に出ない理由に公務を挙げていたのだ。
では公務で何をしていたのか。都庁に籠っていたかといえばそうではない。ここにヒントがある。都知事として「現場視察」に赴き、メディアの露出を増やしていた。この手法なら小池氏にとって厄介なフリー記者に質問されないだけでなく、街頭演説をしなくてもPRができる。
BS-TBSの『報道1930』(7月4日)は小池氏について、
『告示日から今週月曜(7月1日)までの12日間で、公務の視察は通常では考えられない13回にのぼります』と報道。やはり通常より多く視察を選挙期間中に入れていたことがわかった(最終的には18回だった)。
その公務の1つに「都電プロレス」があった。
《小池氏は6月29日、プロレス団体「DDT」が東京さくらトラム(都電荒川線)で開催した「都電プロレス」のオープニングセレモニーに公務として出席しただけでなく、試合にも“参戦”。》(東京スポーツ7月2日付)
「プロレスの政治利用」と批判の声
鈴木みのるを羽交い締めにした髙木三四郎から呼び込まれると小池都知事は空手チョップを鈴木の胸元に放った。観客の「百合子」コールの中、小池氏は上機嫌で降車した。
DDTを運営するCyberFightの副社長でもある髙木三四郎は「今日の1番は小池都知事が公務で視察にいらっしゃったこと」「序盤の知事の空手チョップが1番効いた。あの空手チョップは力道山先生の空手チョップだと思うんです」と語った。
東スポによれば、今回の都電プロレスはDDTのリングにも上がる自民党の川松真一朗都議が、仕掛けたものだという。都電荒川線の50周年記念の盛り上げイベントとして、昨年大成功を収めた新幹線プロレスを開催したDDTが企画した。川松氏が都交通局と折衝したという。
SNSでは、街頭演説をしないで都電プロレスに出ている小池氏への批判もあったほか、
《矛先は出場したプロレスラーにも向けられ、DDTや鈴木に対しては「ガッカリした」「プロレスの政治利用」「権力者にすり寄るとは」の声も。》(スポニチ7月2日)
プロレスラーは権威に認められるとうれしいのだ
これを受けて鈴木みのるはXに「オレの職業はプロレスラー。ものすごい倍率のチケットを手に入れた16人の観客たち全員が『あー楽しかったー』って思ってもらえるように全力で自分のやるべきことをしたまで。誰に、何を、何と言われようが、これがオレの仕事に対する考え方。観客全員が笑顔で電車から降りていく姿を見れたからOK」と投稿した。
では今回の件を自分なりに考えていきたい。まず私はプロレスに多様性という概念を教えてもらった。1990年代初頭のことだ。
馬場猪木の時代が終わり多団体時代となり、さまざまなレスラーが観客に多様な世界を見せた。格闘技系の試合もあればデスマッチもある。それぞれを楽しんでいいんだという価値の多様性をいち早くプロレスが教えてくれたのである。今でも感謝している。だから新幹線とか都電の車内でプロレスをやるのもアリだと思っている。今回のように「公」を取り込んでいこうという野心も理解できる。
その前提のうえで「プロレスと政治」について考えたいのだ。髙木三四郎の小池称賛コメントには権力者に近づく野心家が放つオーラが出ている。そのうち選挙に出そうな“やり手臭”もする(過去に出馬歴もあり)。
私はそうした匂いは大の苦手だが、プロレスの歴史を振り返ると髙木だけではない。子どもの頃に読んだコラムには「アントニオ猪木は自分の興行に政治家を上げるから嫌だ」と書いていたものが印象的だったし、実際に猪木はそのあと政治家になった。後を追うように政治に進んだレスラーも多い。現石川県知事もそうだ。そもそも日本のプロレスの父と言われる力道山は政治と密接だった。
長年プロレスを取材してきた斎藤文彦氏は次のように語る。
「日本プロレスのコミッショナーが自由民主党副総裁の大野伴睦でした。力道山のプロレスは大資本(三菱)と政治とテレビが一体となって始まりました。メディアには正力松太郎がいた。テレビの隆盛こそが戦後復興になると思われていたなかで力道山のプロレスは良いコンテンツとして評価されたのです」
力道山のプロレスは生まれたときはカギカッコ付きの「超メジャー」だったと斎藤氏は念を押した。しかし時が経つとプロレスはマイナー視される。スポーツではなくショー、八百長と言われたのだ。アントニオ猪木は世間の偏見に怒り「プロレスに市民権を!」と叫んだ。
今回も髙木三四郎は小池都知事の来訪に「プロレスが視察に来ていただけるくらい、市民権を得たスポーツだと証明できたのかなと」とも語っている。長い間マイナー視されていたジャンルだから権威に認められるとうれしいのだ。これはプロレスファンも同様である。
「都知事を招いて、しかも選挙期間中にあんなにありがたがるなんてちょっとカッコ悪すぎるよね」
しかし、その上で批評精神を持つのがプロレスファンの良いところ。権威なんてぶっ飛ばせ!とやるのもプロレスの力。斎藤文彦氏は今回都電プロレスをおこなったDDTについて、
「都知事を招いて、しかも選挙期間中にあんなにありがたがるなんてちょっとカッコ悪すぎるよね。どうせやるなら小池氏のライバル候補を呼んだほうがプロレスの痛快さじゃない?」
そう、せめて「おい都知事、テレビ討論会ぐらい出ろよ」ぐらい誰かにかましてほしかった。そう考えると猪木は確かに政治的な人だったが、猪木だったら客前で都知事にあれだけヘコヘコしただろうか? 強がりとやせ我慢も猪木の矛盾した魅力だったからだ。それがミエミエであればあるほどに。
少年時代の私は猪木を見て矛盾を学んだ。猪木を真剣に応援して不透明な結末に怒っているのに、一方でこの試合の「政治的意味」も同時に考えていたからである。猪木は矛盾の塊かもしれないが、次第に私も矛盾を小脇に携えていたのだ。
このときの経験から言えることは、できることならデカい矛盾を10代のうちから抱えたほうがいいということ。後に大人になり、人間の営みはそう易々と答えが割り切れるものばかりではないことを眼前にしたとき、猪木の矛盾を早いうちに経験しておいてよかったと何度も思った。猪木と向き合うことは矛盾と向き合い、考えることなのだ。
私がプロレスを好きなのは「半信半疑」の中で悶え、苦しみ、よろこびを見つけるからなんだと気づいた。こんなジャンルは他にあまりないと思う。
多様性と批評精神こそがプロレス
だから今回の都電プロレスが、小池都知事の選挙期間中の公務に「まんまと使われた」もしくは「使わせた」点についてプロレスファン内で賛否両論があっていい。私は「否」の立場である。そしてプロレスを馬鹿にする人がいれば怒ればいい。同時進行でいろいろ考えることはできる。
最後に。アントニオ猪木が死んだ直後、長州力が語った言葉を載せておきたい(拙著 『教養としてのアントニオ猪木』 より)。
《よく政治家がプロレスを引き合いにして、「プロレスみたいな八百長をやっているんじゃない」「まるでプロレスみたいじゃないか」って言うだろ。》
《「プロレスと同じじゃないか!」って何が同じなんだって。そういうふざけたことを言う政治家、おまえらは真剣に人生をマッチメイクしたことがあるのかって。俺たちは真剣にマッチメイクをやっていたんだよ。それを「どうせプロレス」って片づけられたくない。そこだけは言っておかないと。》
これがプロレスラーだ。だからプロレスファンも真剣に批評精神を持つ。多様な見解や価値を認める。このジャンルの面白さである。
(プチ鹿島)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする