[100歳語る 戦後79年]<下>
内ポケットにしのばせた毒薬入りの小瓶。氷点下40度の 凍 てつく寒さ。苦役の末に息絶える元日本兵たち。「思い出すと、涙が出てくる」。岡山市の市川輝子さん(101)の脳裏には、79年前の光景が刻まれている。
戦後、シベリアに抑留された約60万人の日本人の中には、女性もいた。市川さんはその一人。8月15日に戦争は終わったはずなのに、本当の苦難はその後に待っていた。移住先の満州(現中国東北部)で、仲間の女性約150人とともにソ連の捕虜になった。
岡山市の高等女学校を卒業後、地元の生命保険会社に就職した。19歳だった1942年3月、先に満州へ移り住んでいた姉を追い、新京(現長春)で暮らし始めた。従軍看護婦が足りなくなり、45年7月に女子 挺身隊 として召集された。
配属先は、日本軍が拠点とした満州北部、 佳木斯 の陸軍病院の部隊。包帯の巻き方や担架での負傷兵の運び方を一から学んだ。約600人の入院患者を抱え、従軍看護婦のほか、電話交換手やタイピストら女性軍属が忙しく働いていた。
45年8月9日。ソ連が日ソ中立条約を破って満州へ攻め込んできた。患者をトラックに乗せて南方へ避難させた後、160キロ南西にある方正へ逃れついた。
女性は、ソ連兵に捕まれば、性的暴行を受ける恐れがあった。軍服に身を包み、髪を短く切って男装した。「いざという時には、大和 撫子 の名を汚すな」。部隊長から配られた自決用の青酸カリを常に持ち歩いた。
間もなく部隊はソ連兵に捕まる。ある夜、武装解除された女性部隊が道を歩いていると、ソ連兵が乗った四輪駆動車が近づき、市川さんの前にいた一人を引っ張り込んだ。女学校を出て間もない、おとなしい少女。必死に助けを求める声が今も耳を離れない。
敗戦は9月中旬に知った。「むちゃな戦争をしたからだ」と思った。10月になって極東のハバロフスクの収容所に入れられ、山奥でジャガイモ掘りや 薪 拾いをした。
その後、日本人捕虜の病院へ移り、看護婦を補助した。極寒の中、十分な食事もなく重労働を強いられた男性たちは、次々と栄養失調で倒れた。「お母さん、お母さん」。老人も少年も、うわごとのように繰り返した。薬はない。ただ、その手を握り続けた。
約2年の抑留を経て帰国を果たしたのは47年6月。肌身離さず持っていた青酸カリの小瓶は、京都・舞鶴へ向かう引き揚げ船から海へ投げ捨てた。
7月1日、部隊でずっと行動をともにしていた姉と一緒に岡山駅に降り立つと、両脇を親類に抱えられた母富江さんの姿が目に飛び込んできた。ぼろぼろと涙を流し、「よう元気で帰ってきた」と迎えてくれた。他の家族を岡山空襲や病で失い、一人だった母。病弱で床に伏せりがちだったが、「2人が帰ってくるまでは死ねん」と待ち続けていてくれた。母娘3人で暮らし、母は1年後に静かに息を引き取った。46歳だった。
市川さんは一生独身でいるつもりだった。家族が引き裂かれるのが戦争――。「またいつ戦争があってもいけん」との思いがぬぐえなかった。しかし、数年後、縁があって国鉄職員の夫と結婚し、2人の娘を授かった。孫にも恵まれた。
「幸せは、幸せじゃなぁ」。そう笑った後、「でも、大勢が向こうで死んだから……」とつぶやいた。
専門家の調査や取材に積極的に応じて体験を語ってきたが、昨年秋に転んで入院したのをきっかけに、会話がかみ合わないことが増えてきた。家族は、取材を受けるのはこれが最後と決めた。
「戦争はいけん。戦争するんはバカだ」
101歳の夏、伝えたいことは、それだけだ。(南暁子)
抑留体験 隠す女性多く
ソ連の指導者スターリンは1945年8月23日、日本人捕虜50万人をシベリアへ移送するよう極秘に命じた。独ソ戦で多くの犠牲者を出したため、労働力を穴埋めする狙いがあった。
シベリアやモンゴルの収容所には多くの日本人捕虜が連行され、酷寒の中、鉄道建設などの重労働を担わされた。厚生労働省の推計では、飢えや伝染病などで約5万5000人が死亡した。引き揚げは、46年12月から10年かけて行われた。
女性抑留者の正確な数は分かっていない。生田美智子・大阪大名誉教授(日露日ソ交流史)は体験者の証言や手記、ロシア政府の記録などから「少なくとも300人以上、多ければ5000人に上るのでは」とする。
女性は過酷な肉体労働に従事することはなかったが、性被害の恐怖と隣り合わせだった。帰国後、「社会主義思想に染まったのでは」といった差別を恐れ、抑留体験を隠した人も多かった。