《能登半島地震》護岸が崩れ、風呂は沈下。旅館に海水が入ってくる…和倉温泉の旅館から聞こえる悲鳴「私達でさえ心が折れそうになる現場もあります…」

〈 「復興応援割より、安全に観光できるよう直してほしい」「貯えを取り崩しながら耐えています」能登半島地震で追い詰められた観光業者のリアル 〉から続く
和倉温泉に着いた。
石川県七尾市にある能登随一の温泉街だ。
東京都より広い能登半島の中ほどにあることから、2024年1月1日に地震が起きる前には、半島各地へ向かう宿泊拠点になっていた。だが、被害が大きく、休業している旅館が多い。能登観光全体へのダメージが深刻化しただけでなく、被災地支援の要員が金沢など車で片道2時間以上離れた都市部から通わなければならなくなった。和倉温泉が被災した影響は温泉街だけにとどまらない。
能登半島の観光はどうなるのか。
「まずは護岸」の理由と“温泉の歴史”
これまで、金沢駅の観光案内所で「ここなら大丈夫ですよ」と勧められたルートをたどってきた。
千里浜なぎさドライブウェイ( #1 )を通り、羽咋(はくい)市で妙成寺などに立ち寄り( #2 )、志賀(しか)町で「能登金剛」の名所・巌門( #3 、 #4 )を訪れた。その全ての場所で観光関係者が一様に口にしていたのは「和倉温泉に泊まれないから、お客さんがうちまで足を延ばせない」という嘆きだった。
温泉街は七尾市の中心部から7kmほど離れた七尾湾沿いにある。確かに観光客がおらず、道路や建物の損壊も目立っていた。
とりあえず旅館の一軒を訪ねてみた。出てきた幹部社員は元気がない。
「まずは護岸です。護岸をしっかり直さないと、宿の復旧工事に進めません」と話していた。
どういうことなのか。旅館本体の工事より、護岸に先に手をつけなければならないとは。
実は、そうした特殊事情が温泉街の再建を阻む要因の一つになっていた。
これには温泉の歴史的な経緯が関係している。
和倉温泉は1200年前の平安初期、今とは別な場所に湧き出したのが始まりとされる。しかし、約250年後の地殻変動で涸れ、七尾湾の沖合約60mに移ったのだという。ある日、ブクブクと泡立つ海で傷ついたシラサギが身を癒しているのを漁師の夫妻が見つけた。不思議に思って海に手を突っ込むと熱い温泉だった。これが「温泉発見」の物語だ。
江戸時代には、加賀藩の第2代藩主・前田利長が湯を取り寄せ、腫物を治療して評判になった。第3代藩主の利常は湯口を整備し、周囲を埋め立てて島にするよう町奉行に命じた。温泉は当初、「涌浦(わくうら)」と呼ばれたが、「わくら」となまり、加賀藩が「和倉」に改めさせた。
湯の湧く島は明治時代の埋め立てで陸地になった。
このため、和倉温泉では海岸に建てられた旅館が多い。
「私達の一番の売りは海の眺めでした」。前出の旅館幹部社員が語る。まるで海の上で湯に浸かっているような気分になれたのだ。
「ところが、能登半島地震で和倉全体の護岸がやられてしまいました。護岸を修復しないと、旅館の方に海水が入ってきてしまいます。現在は土嚢(どのう)を積んでもらっているのですが、とにかく海水の浸入を防がないと、建物の修復工事に入れないのです」と説明する。
悪いことに、一帯の岸壁が沈下してしまった。
民有護岸は所有者が直すのが原則
和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合の事務局は「被害が酷い旅館だと、海際の露天風呂が30cmぐらい下がってしまい、海水が入ってくるそうです。海水が建物の基礎部分を浸すと問題が大きくなります」と語る。
だからこそ護岸を直さなければいけないのだが、簡単にはいかない。場所によって石川県、七尾市、旅館と管理が異なり、民有護岸は所有者が直すのが原則になっている。
これについては、発災から半年の節目に現地を訪れた岸田文雄首相が「民有護岸についても、地方公共団体に所有権を移管していただいて再整備をするなど、政府として復興のための基盤づくりを加速していきたい」と述べた。
「総理に来ていただいて心強い」という声はあるものの、被災から半年も経過してからの発言である。
また、護岸工事は海岸の旅館を解体して再建する場合と、修繕にとどめる場合では工法が違う。気候変動を見据えた護岸のかさ上げも今後の課題で、複雑な要素が絡む。
温泉街全体の復興目標は2040年
こうした事情も手伝って「営業再開には少なくとも1年以上かかる」と話す旅館もある。
組合事務局は「新型コロナウイルス感染症の影響で経営に苦労してきたので、すぐに動けるかというとなかなか難しい旅館もあります。ただ、21軒の旅館全てが復興に向けて進んでいこうと考えています」と、温泉街の意気込みを代弁する。
しかし、2024年8月下旬時点で、営業再開にこぎつけた旅館はたったの3軒。通常営業できる状態ではないので復旧・復興関係者に限って受け入れている旅館が7軒。計10軒が何らかの形で宿を開けている。残り11軒は休業中だ。
温泉街の関係者で作る「和倉温泉創造的復興ビジョン策定会議」がまとめた「ビジョン」によると、温泉街全体の復興目標は2040年。旅館はその前に順次営業を再開するとしても、被災から16年かかるという目算だ。
「観光に来て」と大手を振って言える状況では…
組合事務局にはこのところ「泊まれる旅館はありますか」という電話が増えている。「少しでも支援したい」という思いから、日帰り入浴の問い合わせも多い。
ただ、「泊まった時に観光できるところがありますか」という質問もあり、これには答えにくいのが実情だ。担当者は「復旧が進んでいる部分と、逆に酷くなっている部分があります。一度は仮復旧した道路でも、また穴が広がる箇所があったりするのです。状況は日々変わっているので、各地の観光協会に問い合わせて下さいとしか伝えられません」と心苦しそうだった。
前出の旅館幹部社員も「輪島の朝市通りなど、大切な観光資源が被災してしまいました。確かに来ていただける観光地もあります。その際、被害の現状を見て、防災について考えてもらうきっかけにもできるでしょう。でも、私達でさえ心が折れそうになる現場もあります。まだ避難している被災者もいます。水道が出ない家もあります。家の再建資金に悩んでいる人もいます。『観光に来てください』と大手を振って言える状況ではありません。早く能登全体としての復興を発信していける状態にしていかないと」と力を込める。
そして、「旅館は一時的に泊まっていただく施設ですが、米を消費したり、魚を仕入れたり、新聞を取ったりと、経済波及効果が大きい部分があります。一日も早く営業を再開して、能登活性化の役に立ちたい」と話していた。
ミュージアム、道の駅、「花嫁のれん館」の観光が可能
ところで、現在の七尾市内ではどのような観光ができるのだろうか。市役所で観光行政を担当する交流推進課に聞いた。
「のと里山里海ミュージアムがオープンしていますし、土日祝日であれば港にある道の駅『能登食祭市場』も開いています。まちなかでは花嫁のれん館も開館しています」と担当職員が次々に挙げる。見て回れるところはかなりありそうだ。
「花嫁のれん」は、結婚する女性の実家の家紋を染め抜いた華やかなのれんだ。旧加賀藩の領内で幕末から明治にかけて、嫁入り道具に加わった。だが、婚礼以外ではなかなか出番がない。そこで古い店舗が建ち並ぶ七尾の中心街「一本杉通り」で、商店の女将達がまち起こしの一環として展示を始め、これが発展して「花嫁のれん館」が建設された。
残念なことに、一本杉通りでは国登録有形文化財の明治建築が倒壊するなど被害が激しく、情緒ある面影はかなり失われた。
被災後の通りを歩くと、痛々しい。ほうぼうで工事が行われていて、大工の一人は「さあ、いつまでかかるんでしょうね」と汗まみれで作業をしていた。
地震に耐えた町屋造りの御菓子処「花月」
営業している店もあった。1896(明治29)年創業の御菓子処「花月」。女将の通(とおり)文子さんに「何が名物ですか」と尋ねると「松林(しょうりん)」を勧められた。桃山時代の絵師・長谷川等伯の代表作『松林図屏風』(国宝)に着想を得た菓子だ。七尾出身の等伯は、上京して千利休や豊臣秀吉に気に入られ、狩野永徳としのぎを削るなどして活躍した。「松林」は寒天に大納言小豆がぎっしり詰まっていて、形が松の木の皮をほうふつとさせる。
「この店は町屋造りになっています。どうぞご覧ください」。そう言われて、見学させてもらった。
「釘ひとつ使っていない建築物ですが、能登半島地震に耐えたのです」と、通さんが解説する。
能登半島地震と呼ばれる災害は今回を含めて2度あり、前回は2007年3月25日に発生した。この時、七尾市では最大震度6強を計測したが、それでも損壊しなかった店舗だ。花月ではその後、店舗を曳家(ひきや、解体せずに建物を移動させること)で道路から後退させ、併せて基礎工事をしっかり行ったのだという。今回はこれが功を奏したのだろうか。
通さんには嬉しい出来事があった。「地震の発生から半年が経過した6月30日、初めて40人の団体が来てくれました。町屋造りのお店で抹茶やお菓子を味わっていただいたのです」。観光は少しずつであるが、動き始めている。
「頑張っている七尾市を見に来てほしい」
七尾市の観光担当者は「被災当初は被害が酷くて、とても『来てください』とは言えませんでした。でも、飲食店関係はほぼ営業を再開したので、能登の海の幸を寿司などで楽しんでもらえます」と話す。
そして「うまく言えないのですけれど」と言葉を選びながら、「地震の爪痕が残る市内でも、復興の足音が聞こえつつあります。一本杉通りでは、取り壊し中の店舗がある一方で、頑張って営業している店舗もあるのです。仮設店舗(飲食店や美容院など4店)もオープンしました。全国屈指の規模を誇る山城の七尾城跡は、石垣などが崩落して行けないエリアもありますが、被災状況を含めて見てもらえます。もうちょっと待っててください。必ず復興します。頑張ってます。そんな七尾市を見に来てほしいなと思います」。切々と訴えた。
撮影=葉上太郎
(葉上 太郎)

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