来年の「終戦80年」を前に、本年は激戦続きの昭和19(1944)年から80年という節目となる。日本軍は快進撃を続けた開戦当初から戦局が転換した後も、順当に負け続けたわけではなく、米軍も必死であった。「日本軍はよく戦った」という観点で向き合う機会が少ないのは、戦争自体を否定するような戦後思潮と無縁ではなかろう。
本連載では、この年の大規模な戦闘について、筆者が直接取材した戦争経験者の証言も交えて紹介したい。
19年6月15日、米軍が圧倒的な兵力でサイパン島へ上陸した。同島を奪われれば、帝都・東京が敵の空襲圏内に入るため、日本海軍は機動部隊(=空母を中心に編制された部隊)を主力とする第一機動艦隊で決戦を挑んだ。
日米間では、それまで珊瑚海海戦(17年5月)と、ミッドウェー海戦(同年6月)、第2次ソロモン海戦(同年8月)、南太平洋海戦(同年10月)という、4度の空母決戦(=機動部隊の艦載機で敵を攻撃し合う)が行われていた。
そもそも、世界史上、空母決戦を行えたのは日本と米国のみである。南太平洋海戦はガダルカナル島をめぐる戦いで、米空母を撃沈してミッドウェー海戦の雪辱も果たしたが、艦載機と熟練搭乗員の消耗激しく、機動部隊の再建に1年半の月日を要した。
マリアナ沖海戦に参加した日本空母は、それまでで最多の9隻(艦載機439機)。米国側は15隻(891機)で、「史上最大の空母決戦」となった。
本海戦で日本海軍は、空母3隻などを失い惨敗した。戦力差に加え、艦載機搭乗員の練度の差や、米国側の新兵器がその要因とされる。
空母「瑞鶴」の戦闘機(零戦)隊で、6月19日に第一次攻撃隊を護衛した藤本速雄氏(故人)は「敵機動部隊上空まで後30分ほどの所で、敵F6F戦闘機の大群が上方から襲い掛かってきました。味方の爆撃機・雷撃機はほとんど撃ち落されて、海面に燃料の油紋がずーっと続いてるありさまで…」「翌日、『瑞鶴』に帰還すると、私も既に戦死扱い。でも、自分たちの練度がそこまで敵に劣っていたとは思いません、真珠湾攻撃だって初陣の搭乗員がたくさんいましたから」と話してくれた。
南洋群島そして帝都を守るため、他国が及びもつかない大海空戦を戦った先人たちに、まずは感謝と敬意を表したい。
■久野潤(くの・じゅん) 日本経済大学准教授。1980年、大阪府生まれ。慶應義塾大学卒、京都大学大学院修了。政治外交史研究と並行して、全国で戦争経験者や神社の取材・調査を行う。顕彰史研究会代表幹事。単著に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社)、『帝国海軍の航跡』(青林堂)など。共著に『決定版 日本書紀入門』(ビジネス社)、『日米開戦の真因と誤算』(PHP新書)など。