「モルモットでも見せ物でもない」「でも、どうか目をそらさないで」…被爆の傷痕見せ語った先人たち

歴史の証人 被団協平和賞<上>

ノーベル平和賞に被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」が選ばれた。唯一の被爆国・日本から68年間にわたって核兵器廃絶を訴えてきた「歴史の証人」たち。来年は被爆から80年となる。その歩みを振り返り、迫り来る「被爆者なき時代」への課題を考える。
「ここまで到達できたことはすごくうれしい」。被団協代表委員の田中熙巳さん(92)(埼玉県新座市)は、受賞決定から一夜明けた12日、東京都内での記者会見で表情をほころばせた。
13歳の時に長崎の爆心地から3・2キロの自宅で被爆し、伯母や祖父ら5人を亡くした。1970年代に被団協の活動に加わり、半生をささげてきた。
被爆者たちの歩みは苦しみの歴史だ。45年8月に広島と長崎に投下された原子爆弾。45年末までに計約21万人が命を落とし、生き残った人たちも原爆の後遺症に苦しみ、差別や偏見を恐れて口をつぐみ続けた。
変わるきっかけになったのは、米国の水爆実験で船員らが被曝した54年の「第五福竜丸」事件だった。核廃絶の機運が盛り上がり、翌年に広島、56年には長崎で原水爆禁止世界大会が開かれ、「再び被爆者をつくらない」とのスローガンを掲げ、被爆者が語らずにいた「空白の10年」を経て被団協が誕生した。

当初、運動の主眼は原爆の後遺症や差別に苦しむ被爆者の救済を実現することだった。しかし、冷戦下で緊迫する国際情勢への危機感から、被爆者たちは傷ついた自身の体をさらし、核兵器の残酷さを訴え始めた。
82年、米ニューヨークの国連本部での第2回国連軍縮特別総会。「ノーモア・ヒバクシャ」。代表委員だった山口仙二さん(2013年に82歳で死去)は、被爆者初の国連演説に臨み、自らの体に残る傷痕のむごさを語り、そう訴えた。
16歳の時、長崎の爆心地から1・8キロで被爆した谷口稜曄さん(17年に88歳で死去)も、熱線で真っ赤に焼けただれた背中の写真を自ら示し、核廃絶を国際社会に求めた。
長崎で被爆した被団協代表委員の田中重光さん(83)には忘れられない光景がある。2005年に核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれた米国を谷口さんと訪問した。谷口さんは背中に残るケロイドで椅子にもたれることができず、夏でも上着を脱がず動き回っていた。「平和な未来は自ら切り開くという先輩たちの思いを受け継がなければ」。背筋が伸びる思いだった。
田中さんは12日の記者会見にオンラインで参加し、「先輩たちに感謝したい」と語った。13日には谷口さんの墓を訪れ、受賞を報告するつもりだ。

草の根の活動は、1995年の被爆者援護法施行、2017年の核兵器禁止条約の採択につながった。
「ヒロシマの顔」として活動を引っ張ったのが坪井直さん(21年に96歳で死去)だった。20歳の時に広島で被爆し、全身に大やけどを負った。中学教諭として原爆の非人道性を語った「ピカドン先生」は退職後、被爆者運動を先導した。
3歳の時に被爆した清水弘士さん(82)(広島市)は受賞を知った瞬間、継承に命をかけた坪井さんの姿が脳裏をよぎった。「語る資格がないなんて言ってはダメ。あんたも語りなさい」。自身の体験を語ることに消極的だった清水さんを、坪井さんは一喝した。
背中を押され、68歳から被爆証言を始めた。坪井さんの遺志を継ぎ、うっ血性心不全などで今冬に3か月入院してもなお、酸素吸入器を携えて証言を続ける。
今、ロシアによるウクライナ侵略など核兵器の脅威がかつてないほど高まっている。ノーベル賞委員会は、被爆者たちを「歴史の証人」と呼び、自らの体験を語り、核兵器使用をタブーとする価値観の確立に大きく貢献したとたたえた。
清水さんは語る。「『核の脅威を真に訴えられるのは被爆者だけ』と、国際社会から言われた気がして身が引き締まった。今こそ世界に原爆の惨劇をしっかりと届ける」。被爆者の平均年齢は85歳超。残された時間は長くないが、核なき世界の実現を諦めない。

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