相模原市の山あいに立つ障害者施設、津久井やまゆり園。玄関前の鎮魂のモニュメントには先日、遺族の同意により、11人目の犠牲者の名前が刻まれた。「障害者の命に価値はない」という歪んだ思想のもと19人の命が奪われた戦後最悪級の殺傷事件から、この夏で10年。
再建後の2021年から園長を務める永井清光さんは、事件を起こした植松聖死刑囚の採用と退職にも関わった人物だ。植松とはいったいどんな人間だったのか。なぜ許されざる凶行に走ったのか。その根底にあったのは、彼の「幼稚さ」ではないか永井さんはそう語った。【前後編の前編】
「普通の青年」の変質
発端は2012年12月。植松が津久井やまゆり園に入職したことだった。
「当時、私は総務課長として非常勤職員の採用に関わっていました。日中支援課の人員が欠けたタイミングで、運営法人のかながわ共同会に人材がいないか問い合わせたところ、『近所にいる』と紹介されたのが、翌年度4月の内定者だった植松でした」
初対面の印象はどうだったのか。
「最初に園を案内したのは私でした。本当に普通の青年という感じで、問題なく採用に至りました。そもそも法人の内定者で、『お墨付きがある』という側面もありましたから」
だが「普通の青年」は次第に綻びを見せはじめる。利用者の手にマジックで腕時計の落書きをした。保険証を2度も紛失した。忘年会では同僚と激しい喧嘩をした。
決定的だったのは、刺青の発覚である。当時の園長と永井さんが聞き取りを行うと、植松はあっさりと背中を見せた。大学時代から彫りはじめたという刺青は、すでに背中一面を覆っていた。
「尋常ではない」
永井さんはそう感じたという。このときの植松の態度も忘れがたい。
「『綺麗でしょ』と、悪気もなく淡々と説明するんですよ。自己満足の世界というかね。いま思えば、それだけ彼自身の人間性が弱くて、刺青を入れることで『箔がつく』と考えていたのかもしれません」
薄弱な人間性を覆い隠すように、「綺麗」な刺青は増殖していく。それと呼応するかのように、植松の内面の闇もまた深まっていったのだろうか。
退職から事件発生へ
2016年2月、事態は急転する。植松が衆議院議長の公邸に手紙を持参したのだ。冒頭には「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」という文言があった。犯行予告とみなされ、園には神奈川県警が訪れたが、永井さんにとっては寝耳に水だった。