〈 《池袋高齢者暴走事故》「チャイルドシートの隙間から莉子ちゃんの足が…」ドラレコに映った事故の瞬間と加害者長男が明かした父親への思い 〉から続く
飯塚幸三は書類送検される前の2019年10月26日、私の直撃にこう語った。
「それまで安全運転を心がけておりましたので、“おごり”があったのかなと思って反省しています」
「安全な車を開発するように、メーカーの方に心がけていただき、高齢者が安心して運転でき、外出できるような世の中になってほしいと願っております」
飯塚本人が松永へ綴った手紙
飯塚への直撃取材の反響は大きかった。「まるで他人事だ」などという批判が起き、飯塚のコメントはその後の裁判で複数回引用された。
2020年10月から東京地裁で始まった刑事裁判でも、飯塚は「車に異常が起きた」と主張。警視庁の捜査員らが踏み間違いを立証していったが、松永が直接質問を行った2021年6月21日の公判でも、飯塚は「記憶では踏み間違いはしていません」と断言した。この日、松永に「妻と娘の名前を漢字で書けますか」と問われた飯塚は「りこさんは難しい字なので、書いてみることができません」と答えた。
同年9月2日。下津健司裁判長は「過失は明白であり、深い反省の念を有しているとはいえない」と断じ、禁錮5年の実刑判決を言い渡した。飯塚は控訴せず、収監された。
判決で裁判長は異例の言及をした。飯塚に対する中傷や脅迫を「過度な社会的制裁」と評価し、「被告人に有利に考慮すべき事情の1つ」と認定したのである。
飯塚の自宅には「メッタ刺しにして殺します」などと書かれた脅迫状が連日届き、自宅や裁判所に出入りする際は怒号が飛んだ。
一方、松永は「金や反響目当てで闘っている」とSNSに投稿されるなど誹謗中傷を受けた。警視庁は松永への嫌がらせ行為について5人を摘発したが、加害者には女子中学生や交通事故鑑定人、別の交通事故遺族も含まれていた。
松永は厳罰を求める署名を集めたが、根底にあったのは「2度と同じ悲劇を繰り返してほしくない」という思いだった。
松永は刑事裁判が行われていた頃、私にこんな本音を漏らした。
「(飯塚には)自分の経験を社会に還元してほしい」「彼の発言は凄い影響力があるよ。世の中に警鐘を鳴らすことができるんだから」
「許せるかどうかは、ちょっと言えないんですけど」
遺族の意向を加害者側に伝えたい。そこで、私は飯塚家を支援しているNPO法人ワールドオープンハートの阿部恭子理事長を通じ、飯塚の長男へ何度もメッセージを送った。
長男のメディア不信は根深かったが、交渉開始から3年が経過した頃、私は長男と面会。2024年2月に、ようやく松永は飯塚の長男と対面を果たした。
長男は謝罪の言葉を口にして、飯塚本人が松永に対して綴った手紙を差し出した。裁判での無罪主張を撤回して踏み間違いを認め、謝罪と反省の弁が記されていた。
〈もっと早くに車の運転を止めていれば、今回の事故を起こさないで済んだと思いますので、運転を続けていたことについては今も後悔し反省しております〉
長男によれば、飯塚はこの手紙を書いたときがまともに手を動かせる最後のチャンスだったという。手紙を読んだ松永は言った。
「彼を責めるようなことは言わない。許せるかどうかは、ちょっと言えないんですけど」
長男は、ドラレコのデータに基づいて事故時の車速の変化を解析。その説明を聞いた松永は「こんなに深い技術的な話をしたのは初めて」と話した。2人とも技術者で、考え方の波長もあっているようだった。
話は誹謗中傷にも及んだ。飯塚がバッシングされた背景に誤解やマスコミの誤報があった。
その1つは飯塚が「予約していたフレンチの時間に遅れそうだった」と供述したという報道だ。私が捜査幹部に確認すると「それは誤りだ」と言い、飯塚の供述調書にもそのような文言はなかった。また店は高級店ではなく、気軽なビストロで、予約時刻には急がなくても十分間に合った。
実際のところ、飯塚の経済力はどの程度だったのか。飯塚は退官後、クボタの副社長や顧問を歴任。その後は日本計量振興協会の会長などを務めたが、名誉職で無給だった。
貯金の多くは母の介護に費やし、収入はひと月約25万円の年金だけ。年金支給額を1円単位で日記にメモしてやりくりし、貯金を取り崩していた。飯塚の死後、遺産を確認した長男は「こんなに少なかったのか」と感じた。
「全員の無念を決して無駄にしない」
そして、同年5月29日、松永は飯塚本人と面会した。事故から1868日目のことだった。義父とともに東京都昭島市の東日本成人矯正医療センターを訪問。車椅子に乗った飯塚はげっそりと痩せ、人相が裁判時と変わっていた。
飯塚は質問を投げかけられても、数分間、発話することができないほど衰弱していた。「はい、いいえ」で答えられる形式の問答にすると、少しずつやりとりが成立するようになった。
「医師に止められていたら、運転をやめていましたか」
「やめていました」
松永が「再発防止の観点から、高齢者やその家族に伝えたいことはありますか」と確認すると、飯塚ははっきり答えた。
「早く免許を返すように世の中に伝えていただきたいです」
飯塚は、松永に体調に不安はなかったかと尋ねられると、「本当は少し不安がありました」と初めて明かした。松永の義父で真菜さんの父である上原義教が「刑務所を出たら、家族と安らかに過ごしてください」と言うと、飯塚は「ありがとうございました」と涙声で発した。それが約40分間の面会の最後の言葉だった。
2024年10月26日、飯塚は93歳で呼吸不全により亡くなった。
事故当時、飯塚の体は運転できる状態だったのか。
飯塚の収監後、長男は実家のパソコンで「転倒の記録」というファイルを見つけた。事故前の2年間で飯塚が記録した転倒の回数は13回。池袋駅で階段を踏み外したときは顎を強打して救急車で搬送され、口の中を切って5針縫った。
この記録を見た長男は「言ってくれよ」と思わず呟いた。こんなに転んでいたと知っていたら、運転をやめさせていたという。
松永は「対立は終わったんですよね」と
事故から2060日目の12月8日。松永と飯塚の長男は、真菜さんや莉子ちゃんが眠る松永家の墓、続いて飯塚幸三の墓をお参りした。松永は「対立は終わったんですよね」と言った。
「誰もが、真菜と莉子にも飯塚さんにも双方の家族にもなり得る。僕は全員の無念を決して無駄にしない」
そして長男が言う。
「松永さんのおっしゃったことが、残された人ができる大切なことだと思うんですよね」
事故後、松永は妻子を失った絶望から自死を考えたことがある。飯塚の長男は針の筵(むしろ)に座っている気分で、睡眠薬を一時期服用していた。そんな2人を支えた人たちの存在や、飯塚の実像など、私は取材で得た真相を『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』に詳しく綴った。
不条理に抗い、かけがえのない日常をどう生きるか。松永や飯塚の長男の生き様はそう問いかけている。
(文中一部敬称略)
(もりたあきら/1982年生まれ。山口県出身。2007年、早稲田大学法学部卒業後、TBSテレビ入社。報道カメラマンとして中国・北京支局、記者として警視庁担当、警察庁担当、警視庁キャップを経て、「報道特集」ディレクター。現在は北京支局長。)
(守田 哲/週刊文春 2026年8月6日号)