「ばばも死ぬから、死んで」78歳の女性は苦悩の末、孫の首に手を掛けた 発達障害、不登校、暴言と暴力、すべての責任を背負い込み…

3月27日朝、千葉県内に住む78歳の女性は、自宅で寝ていた孫の男児(9)に静かに近づいた。用意したロープを首の後ろに通す。すると孫は目を覚まし、驚いた表情を見せた。それでも女性はかまわず、無我夢中でロープを引っ張った。 「ばばも死ぬから、死んで」 なんとか逃れた孫は外に飛び出して行く。ひとり残された女性は自分で110番し、電話口で、悲哀に満ちた声でこう告げたという。「私、孫の首絞めたんですけど。もう悩んで悩んで…」 離婚した息子夫婦に代わり、母親役となって孫の育児に一生懸命だった祖母は、なぜ最悪の行動に出てしまったのか。裁判の中で、家庭内での暴言や暴行、学校でのトラブルの連続に苦悩を深めていった状況が明らかになった。(共同通信=松永ゆうか)
千葉地裁
▽母親不在の子育て 千葉地方裁判所の公判で判明した内容によると、女性は当時、夫と長男、そして長男の子である孫と4人暮らしだった。長男は、孫が3歳のときに離婚している。 長男の仕事は介護職でシフト勤務のため、家を空けることが多い。そのため孫は、主に祖父母に育てられた。何事にもきちんとした「ばば」が寝食や身の回りの世話を担い、おおらかな「じじ」は祖母のサポート役や遊び相手になった。 孫は保育園を卒園する間際に「自閉症スペクトラム(ASD)」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」と診断された。小学校に進学したものの、周囲とのコミュニケーションはうまくいかない。小2からは特別支援学級へ。小3になって通常学級の子どもと一緒に授業を受けるようになったが、その頃から学校へ行くことを露骨に嫌がるようになった。 その理由を、孫は祖父に打ち明けている。 「学校に行っても、怒られに行くようなもんなんだよ」 クラスの児童とけんかになると、先生は相手の子をかばうという。実際、連絡帳にはこんな記述があった。「友達とのトラブルがあって困ります」。孫が一方的に悪いかのようにも書かれていた。
学校のイメージ写真(本文とは関係ありません)
▽孫の暴言と暴力 祖父は法廷でこう証言している。 「孫が学校で受けたストレスは、一方的にばばにかかっていた」 生活リズムを正すよう祖母から注意を受けると、「うるさい」「しつこい」と反発。言葉は成長するにつれてエスカレートし、「死ね」「出て行け」とまで言うようになった。やがて暴力も振るうように。身長150センチと、小学3年にしては恵まれた体格で、力は強い。手加減もない。 夜はゲームばかりでなかなか寝ようとせず、結果として朝は起きられない。遅刻や欠席が増えた。真面目で責任感が強い祖母は、孫の将来を強く不安視するようになった。 一方で、主治医は一貫して、学校に行くことを押し付けないよう指導した。祖父も賛同し、暴言や暴力を受けることがあっても「病気のせいだ」と捉え、さほど問題視はしなかった。 しかし、性格が生真面目な祖母は違った。凶悪事件のニュースを見るたびに悪い想像が膨らむ。「いつか孫も事件を起こしてしまうのでは」 祖母はこの頃、長男にこうこぼしていたという。 「孫のことを考えると、ご飯ものどを通らないし夜も眠れない。あんたはいいわね」 子育ては大人3人で分担していたはずだったが、いつしか祖母ひとりが抱え込み、思い悩む状況に陥っていた。 3月上旬ごろからは、孫が不登校状態に。自宅で祖母と2人きりで過ごす時間が増えた。暴言や暴行は毎日のようにあった。このため、祖母はスクールカウンセラーにいろいろ相談していたが、3月下旬、相談内容が学校側に一切共有されていなかったことが判明する。「これまで相談していたのは、一体何だったんだろう」。そう言って、ひどく落ち込んでいた。
千葉県警香取署
▽事件前日「限界です」 事態は悪化していく。3月26日夜、孫がかんしゃくを起こし、祖父の左ほおを突然、平手打ち。祖母はショックを受けた。自分も幼い頃、戦死した父に代わり祖父母に育てられた経験がある。孫が祖父に手を出すのは考えられないことだった。孫はさらに「出て行け!」と暴言も吐いた。 見かねた祖父は、祖母をレストランに連れ出した。 「私、もう限界です」 2人で静かに食事をした帰り際、祖母がぽつりとつぶやいた。これまでも「疲れた」「楽になりたい」という発言を祖父は聞いていたものの、「限界」という言葉を耳にしたのはこの時が初めて。「相当追い詰められているんだな」と思ったが、まさか翌日に事件を起こすとは思っていなかった。 翌27日朝、長男と祖父は既に外出していた。祖母は自宅で段ボールをまとめる作業をしていた時、物置の棚にロープを見つけた。 それを手に取って孫の寝ている和室に向かい、犯行に及んだ。110番を受けて警察官が駆け付けた時、祖母はそのロープをクローゼットのポールに掛け、首をつろうとしていた。殺人未遂容疑で逮捕された。
判決文(一部加工しています)
▽再出発 事件後のある晩、祖父と一緒に寝ていた孫は、突然泣き出したという。 「ばばは僕を真剣に怒ってくれたんだ。大きくなって何でもできるように。僕はばばの気持ちを分かってあげられなかった。僕が原因なんだよ」 祖父は公判で孫について聞かれ、涙を流して訴えている。「本当は優しい子なんです。今すぐにでも(祖母と)会わせてやりたい」 勾留が続く祖母にも変化があった。家族との面会を繰り返すうちに、常に厳しかった表情が徐々に和らいでいった。 被告人質問で祖母は、当時を振り返っている。 「あの3月は何だったんだろうか。次から次へと悩みが尽きず、本当につらかった」 祖父は法廷で「後悔」を口にした。「夫として一緒に住み、『限界』という言葉を聞いていながら、未然に防げなかった」 被害者である孫を含め、親族5人が「処罰を求めない」という嘆願書を裁判所に提出。祖母が家に戻った後のサポートも誓った。公判の最後の意見陳述で、祖母は涙声でこう語っている。 「本当に申し訳ない。孫も私も生きていて本当に良かった」 千葉地裁は10月12日、懲役3年、執行猶予4年の判決を言い渡した。判決が確定後、祖母は自宅近くに住む長女とその息子と暮らすことになり、孫とは当分顔を合わせないという。 加害者と被害者の双方を抱えるこの家族は、どのように再出発していくのだろうか。幼い孫が抱えた心の傷は決して小さくないとは思うが、祖母が法廷で語った小さな望みがかなうよう、願ってやまない。「許されるならば、孫のいないときに料理を作ってあげたい」

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