阪神大震災29年 家族との時計の針、再び動き出した 遺族代表の鈴木佑一さん 「支えてくれている」感謝の念、追悼の言葉に込め

あの日から、1人でつらさや悲しみと向き合ってきたつもりだった-。阪神大震災から29年となった17日、遺族代表で追悼の言葉を述べた神戸市須磨区の鈴木佑一さん(34)。震災で母を亡くし家族とも離れて児童養護施設で育った。「自分だけの力で生きていく」。そう決心したものの一人きりの人生は怖かった。だが、いつも誰かが見守り、支えてくれていることに気づいた。灯籠でつくられた「ともに」の文字が揺れる中、周囲への感謝の気持ちを言葉に込めた。
「起きて、起きて」
「その日から、私と家族の時計の針は止まりました」
夜明け前、身を切るような寒さの神戸市中央区の東遊園地。阪神大震災の犠牲者に黙(もくとう)をささげた後、鈴木さんは能登半島地震の犠牲者の冥福を祈り、あの日の記憶を語り出した。
震災当時、5歳だった鈴木さんは同市兵庫区の母子生活支援施設の1階に、母の富代(とみよ)さん=当時(44)=と兄と3人で住んでいた。大きな揺れで施設は倒壊し、鈴木さんと富代さんは下敷きとなった。数時間後に救出されたが、そばで毛布に包まれた母を見て、幼心に「死んでいる」と直感した。
幼い鈴木さんをよく膝の上に乗せ、抱っこしてくれた大好きな母。亡くなったということが信じられず、「起きて、起きて」と呼びかけ続けた。
無事だった兄は別居していた父が引き取った。だが、「2人は育てられない」と言われ、鈴木さんは市内の児童養護施設に入ることに。家族と離れ離れとなり、寂しさで涙があふれた。
兄との再会
勉強やバイト、体を鍛えることに没頭した。大学に進学するころには「自分の中で家族とのつながりを切っていた」。生きるためというより、死にたくないという常に切羽詰まった毎日を過ごし、「1人でこのまま人生が終わっていくような気がして、とても怖かった」
海外留学を経て、日本と海外をつなぐ仕事がしたいと貿易会社を設立。慣れない仕事で多くの人に助けられるうちに、自分がこれまでいかに支えられて生きてきたか気づかされた。
長らく会っていなかった兄とも昨年、再会。鈴木さんに対して責任を感じて生きてきたという兄に、「悔いることなく、幸せになってほしい」と伝えることができた。
「今の自分が好き」
母の命日が近づく中、今月1日に能登半島地震が発生した。「人の心はそれぞれのスピードで変わる。僕はここまで来るのに29年間かかった」。自身も長く苦しい道のりを歩んできたからこそ、被災者に今、何を伝ればいいのか分からない。
だが、自分の中で確かなことはある。鈴木さんは多くの人への感謝とともに、こう言い切った。
「大切な母を失ったが、震災の後にたくさんの素晴らしい方々に出会い、支えられてきたのも事実。私は今の自分がすごく好きです」
この日、兄と初めて母の墓参りに行く予定だ。29年間止まっていた家族との時計の針が、再び動き出した。(安田麻姫)

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