田んぼと数軒の家屋しかないのになぜ…!? 全国的に珍しい「屋根付き橋」が愛媛の山間に“集中建設”された“納得の理由”

“屋根付き橋”というものをご存知だろうか。
その名のとおり屋根が付いた橋のことだ。最も多いのは、神社の参道に架かっている神橋だろう。そのほか、観光地や旅館敷地内等で、客が雨に濡れないよう、橋に屋根が付けられているケースもある。映画『マディソン郡の橋』で描かれるのも、屋根付き橋の一種だ。
のどかな田園風景の中にある「屋根付き橋」
しかし、屋根付き橋なんて見たことも聞いたこともない。そんな方も多いと思う。
私が屋根付き橋に興味を持ったのは、2023年8月に愛媛県内子町を訪れた時のこと。町の観光案内でも紹介されている田丸橋という屋根付き橋を見に行った。
田丸橋はのどかな田園風景の中にあり、橋の向こうには田んぼと数軒の家屋しかない。神社でもなければ観光地でもない。住人が日常生活のために利用する、いわゆる“生活橋”に屋根が付いていた。
近づいてみると、手作り感が伝わってくる。木造の簡素な橋で、屋根は杉皮で葺かれ、見事なまでに風景に溶け込んでいた。橋脚はなく、川の両岸から支えるアーチ構造をしている。橋の床板は不揃いで、踏むとギシギシと音を立てる。踏んだ床板が時々グラつくのはご愛嬌だ。
現在の田丸橋は、洪水で流されてしまったものを1944年に再建したもの。その後、トタン屋根に改修されていたが、山里の風景にそぐわないとして、住民が立ち上がり田丸橋保存会を結成。1982年、元の姿である杉皮に葺き替えたのだという。
生活橋にわざわざ屋根を付けたのは、橋を風雨から守り、長持ちさせるためだと言われている。木造の簡素な橋は20年ほどで架け替えが必要だったが、屋根を付けることで数倍の年数使えたという。
とはいえ、それはちょっと大げさな表現で、屋根を付けたことで橋の上に農作物を保管できたり、農作業の合間に食事を摂れたりするといった、住民たちの憩いの場としての機能が大きいように感じた。
田園風景に溶け込む生活道に架けられた屋根付き橋は、道以外の用途でも重宝され、地元住民の努力によって維持されていた。橋そのものの姿も非常に特異で魅力的だが、その背景にも惹かれるものがあった。
全国を見ても他に例がない「屋根付き橋」の密集具合
また、全国的に見ても珍しい屋根付き橋が、内子町だけで5橋もある。さらに、内子町と隣接する大洲市にも屋根付き橋が8橋もあるというのだ。
大洲市の屋根付き橋は、全てが河辺川とその支流にあり、「浪漫八橋」と名付けられている。内子町と大洲市を含む南予地方に、合わせて13もの屋根付き橋があることになる。これほど屋根付き橋が密集しているのは、全国を見ても他に例がない。その大部分は、人家や畑に行くために地元の人たちが利用している生活橋。
いったいなぜこの地域に屋根付き橋が集中して建設されたのか……。
その謎を探るべく、同地域にある他の橋も見てみたいと思うようになっていた。そんな時、度々出演しているCBCテレビ「 道との遭遇 」という番組から撮影の話が舞い込み、ロケを兼ねて2023年10月、2度目の訪問を果たした。まずは内子町にある下の宮橋を訪れる。
これは、対岸の田畑へ行くための橋で、距離の短さに反して立派な屋根が付いている。新しいと思ったら、1994年完成とある。
内子町にある5橋のうち、3本は平成に架橋されている。脈々と屋根付き橋の文化が受け継がれているように感じた。
次に向かったのは、内子町で最も歴史が深い弓削神社の太鼓橋だ。太鼓橋というのは形状からくる一般名称のはずだが、ここでは固有名詞として使われている。
これは生活橋ではなく、池に架かる神社の神橋なのだが、その風貌に心を奪われた。過去に見てきた神橋とは全く異なり、田丸橋に通じるか、それ以上に簡素な造りがとても良い。距離が長く、途中3本の橋脚に支えられ、弓なり状にゆるやかに湾曲している。橋脚も全て木で組まれている。
ちょっと不安を感じる見た目だが、渡ってみると安定している。少し傾いている気もしたが、不安はなかった。橋の向こうには鳥居があり、その先が弓削神社だ。瀬戸内海に浮かぶ弓削島にある弓削神社の分社として、室町時代の1396年に創建された。その際、神社を城に見立て、正面を堀のごとく池にして、太鼓橋が架けられたともいわれている。
神社の創建当初から橋が架かっていたのなら、南予地方で最古の屋根付き橋となり、ここから地域に屋根付きの橋が広まっていったのではないかと考えられる。
しかし、愛媛県教育委員会の資料には、大洲市にある御幸の橋が1886年の架橋で、現存する屋根付き橋では最古と書かれていた。
「屋根付き橋」の本当のルーツは…?
弓削神社は1396年に創建され、当初から橋はあったとされている。そのため、橋そのものは弓削神社のほうが歴史が古いことは間違いない。しかし、屋根がいつ付いたかの記録がないため、御幸の橋が南予地方で最古の屋根付き橋とされているわけだ。
はたして、実際に、南予地方における屋根付き橋のルーツは御幸の橋なのか、それとも実は弓削神社の太鼓橋なのか、気になってきた。
近所の方にお話を聞くうちに、詳しい人がいると教えられ、訪れたのが岡本実男さん(77)のお宅だった。早速、弓削神社と太鼓橋のことをうかがう。
太鼓橋は、地元では“弓削の橋”とも呼ばれていて、昔からどんなに偉い人でも馬から下りて橋を渡っていたという。橋の上で宴会のようなことはやらなかったが、子供たちの遊び場になっていた。夏になると小学生は橋から池に飛び込んでいたが、中学生になると屋根の上から池に飛び込んでいたそうだ。
橋は全て地元の材料だけで造られていて、これまで地域の人たちで維持管理してきた。大規模な改修になるとさすがにクレーンだけは業者に頼むが、それ以外は全て住民による人力で行ってきたらしい。
ちょうどこの年、橋脚を作り替える予定があるとのことで、橋脚の図面も見せていただいた。
橋は松、屋根は杉皮で葺かれ、孟宗竹で押さえられている。橋脚には栗の木が使われるが、畑の栗ではダメで、山に自生している栗でなければならないという。橋脚は常に水没しているため、畑の栗では柔らかく長持ちしないとおっしゃっていた。
また、弓削神社では“日参り信仰”が今も行われていて、町内の氏子さんが日替わりで365日、必ず誰かがお参りをしている。とても興味深い話をたくさん聞いたが、橋の屋根はずっと昔から付いているので、いつ付いたかは分からないということだった。
この日は時間の都合もあってこれで引き上げたが、その後も屋根付き橋のことがずっと気になっていた。そして2024年1月、再び愛媛を訪れた。まさか屋根付き橋のため、半年の間に岐阜から愛媛まで3回も行くことになるとは……。
3回目の訪問でわかった“新たな事実”
今回は最古の屋根付き橋とされている大洲市の御幸の橋からスタート。御幸の橋は、天神社の参道に架かる太鼓橋だ。神橋には弓なり状の太鼓橋が多いが、弓削神社との共通点でもある。内子町で最古の弓削神社と大洲市で最古の御幸の橋、いずれも参道に架かる神橋だ。
そして、それ以外の屋根付き橋は全て生活橋となる。どちらがより古いかは定かではないが、神社の神橋を見て便利だと思い、周囲の生活橋にも波及していったのではないだろうか。
浪漫8橋を巡り、内子町で未訪問だった常盤橋を訪ね、南予地方の屋根付き橋13橋を全て巡った。
そして向かったのが、弓削神社だった。3か月ぶりに訪れると、弓削の橋の橋脚が1つ新しくなっていた。
弓削神社では、弓削神社がある内子町石畳地区を中心に歴史を調べている西山学さん(60)にお会いして、話を聞いた。西山さんは東京でシステムエンジニアとして働いていたが、10年ほど前に内子町へ戻ってきた。地域の価値は、外に出てはじめて気づくことも多い。
西山さんからは、かつては橋の上に炭俵を置いて保管していたことを聞いた。神橋とはいえ、やはり生活のためにも活用されていたのだ。先に岡本さんからお聞きした子供の遊び場だったという話も合わせると、権威ある神橋は地域に溶け込み、人々の生活とともに歴史を刻んできた様子がうかがえる。内子町にはもっと多くの屋根付き橋があったが、水害で流されるなどして多くは失われてしまったという。
また、橋の神社側は、土地が池に突き出したような形になっていて、そこに鳥居が建っている。この地形から、神社が建立された当時から橋が架かっていたことが分かると、西山さんが教えてくれた。なるほど、言われてみれば確かにその通りだ。
なお、屋根付き橋は南予地方に集中しているが、内子町と大洲市の広範囲に位置し、それぞれの距離がごく近いというわけではない。しかし、それぞれ歴史のある神社の神橋がルーツになっているように思われる。離れているにもかかわらず共通点が多い点について、西山さんに意見を求めてみた。
「内子町も大洲市も、元は大洲藩ですから。加藤家が治めていた大洲藩内で広がっていったのではないでしょうか」
なるほど。現在でこそ行政区分が異なるが、昔は同じ大洲藩だったのだ。それであれば、藩内で屋根付き橋が広まっていったと考えるのが理にかなっているだろう。
肝心な弓削の橋に屋根が付けられた年代については、西山さんでも特定できていなかった。御幸の橋の1886年(明治19年)よりも前か後かが争点になるが、資料が残っておらず、地元の方に聞きこんでも分からなかったという。神社の社殿は1897年(明治30年)に改修されているとの記録があるが、橋については記録がない。
「もう少し早く聞き込みしていれば……」
西山さんは悔しそうにおっしゃった。私にも同じような経験が多々あるので、気持ちは痛いほどよく分かる。
その後、西山さんと弓削神社をお参りし、帰路につこうとした時、ふとした会話から石畳地区に実はもう1つの屋根付き橋があることが判明した。といっても、“石畳清流園”という観光施設の中に造られたものなので、公式な資料にはカウントされていないことが多い。だが、ここまで来て行かない訳にはいかない。14橋目となる屋根付き橋“清水川橋”に寄り道しながら帰路についた。
町役場職員からの“意外な返答”
以前、屋根付き橋について内子町役場に問い合わせたことがある。職員さんと何度かキャッチボールし、自分がいくつか理由を挙げて御幸の橋よりも弓削の橋の屋根のほうが古い可能性があるのではないかと尋ねた。すると、こんな言葉が返ってきた。
「想像ですが、明治30年の社殿改築の際かその前後に屋根が造られたものであれば、その旨が伝わっているのではないかと思います。それが伝わっていないということは、それ以前から存在していたと考えることができるのではないでしょうか」
この返答に、私はハッとした。石畳地区には多くの伝承が残っている。明治時代であれば、それなりに大きな出来事は口伝で残っているはずだ。それまで屋根がなかった弓削の橋に新たに屋根を付けるとなると、地域にとって大きな出来事といえるだろう。そうした言い伝えが一切残っていないのは、明治時代よりも前から当たり前のようにずっと屋根があったことを示す根拠になり得るのではないか、という指摘だった。いうなれば、証拠がないのが証拠、ということだ。確かに説得力はある。
公務員は正確なことしか言ってはダメみたいなイメージがあるが、想像した仮説を返答いただいたことが、何よりも嬉しかった。
弓削神社の参道に架かる弓削の橋。ここから大洲藩における屋根付き橋の歴史が始まり、多くの生活橋にも屋根が付けられるようになった。そして、橋の上に集い、橋の上で寛ぐという独自の文化が形成されていった。私としては、現時点ではこういう結論にしておこうと思う。今後も楽しい調査は続き、内子町石畳地区を訪れることになりそうだ。
2回目の調査の模様と調査結果は、CBCテレビ「道との遭遇」で既に放送され、2月7日正午まで TVer 等で視聴できる。興味のある方は、ぜひご覧いただきたい。
写真:鹿取茂雄
(鹿取 茂雄)

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