元日に起きた最大震度7の地震で、甚大な被害を受けた石川県能登地方。1月13~24日の12日間、岩手県の大船渡通信部の記者が現地を取材した。そこで見たのは、東日本大震災の教訓から即座に命を守る行動をとった住民や、懸命に日常を取り戻そうとする人々の姿だった。(広瀬航太郎)
車で能登地方に入ると、悲惨な光景が次々と視界に飛び込んできた。瓦屋根だけが残った家、支援車両の行く手を阻む土砂崩れ――。そこに真っ白な雪が積もり、道路の陥没も覆い隠していた。金沢市から2時間で行ける距離を、5時間かけて同県能登町にたどり着いた。
岩手県が支援を担当する同町では、少なくとも5000棟の家屋が被災。中でも、津波の影響が大きかったのが人口500人ほどの白丸地区だった。
降り続く雪の中、泥だらけになった自宅の前でたたずむ男性(67)に声をかけると、思わぬ言葉が返ってきた。「あなた、本当に記者ですか」。慌てて名刺を差し出した後、男性はこう言った。「ごめんね。外から色んな人が来るから、誰を信用していいか分からなくて」
疑心暗鬼になるのには理由があった。被災地では、壊れた家の屋根にブルーシートを張り、後で高額な費用を請求するなどの悪質商法が横行し、男性の知人も被害を受けた。東日本大震災後も空き巣などが問題になったが、地震に便乗した犯罪が相次ぐ能登では、支援の手を差し伸べるより前に人への「信頼」が揺らいでいると感じた。
「東日本」教訓に家族で高台避難
思わぬ出会いもあった。
旬の寒ブリ漁への影響を取材していたときのこと。伝統の定置網漁を受け継ぐ漁師集団「日の出大敷」の5代目・中田洋助さん(37)に岩手県の大船渡から来たと伝えると、驚いた様子を見せた。「僕、三陸町に住んでいましたよ」
岩手県大船渡市にあった北里大水産学部の三陸キャンパスで2009年まで学び、当時住んでいた同市三陸町越喜来で、昭和三陸津波(1933年)のことを繰り返し聞かされていたという。東日本大震災が三陸を襲った時も「ひとごととは思えなかった」と振り返った。
元日は、妻と3人の子供、両親らと自宅で過ごしていたときに揺れに襲われ、警報が出る前に全員で高台へ逃げた。「船よりも家族のほうが大事」と、漁船を港から避難させる「沖出し」は考えなかったという。
一部が壊れた船で漁を再開した中田さんに「ここに住み続けるのは怖くないですか」と尋ねた。「もちろん怖い。だけど、僕らは地域になくてはならないという使命感がある。たとえ家族が別の場所に暮らしても、漁師をやめる選択肢はない」。よどみない話し方に覚悟がにじみ出ていた。
「これでまた人がいなくなるな」。取材中、何人もの住民から聞いた言葉だ。
その一人、白丸地区の元区長、岩前純悦さん(76)は、骨組みとがれきだけになった集会所の前でため息をついた。
海に面した集会所では、明治初期から続く毎年9月の「 曳山 祭」で使われる太鼓が保管されていた。だが、高さ約3メートルの堤防を乗り越えた津波は120メートルほど内陸まで押し寄せ、住民や出身者らが交流する貴重な場ものみ込んでしまった。
1月20日朝、新潟県柏崎市の海岸で、「白丸区」と書かれた祭り太鼓が漂着しているのが見つかった。連絡を受けた岩前さんの表情に少しだけ明るさが戻った。「失ったものは大きいが、戻ってきたものもある。祭りも集落も残さんといかんってことやね」
地震から1か月余り。再生に向けた歩みは人それぞれだ。<またいらしね 待っとるわいね>。帰り道、道路脇の看板のメッセージに目がとまった。この先も復興を見届けていきたい。