《追悼・安倍洋子》コットマサーかアッキーと交わした“和解の盃”

「このお雛さまはね、照宮さま(上皇の姉の故・東久邇成子さん)のご結婚の際、婚家にお持ちになるために作られた2組のうちの1組なの。近衛(文麿元首相)さんのところに行ったのが、うちの父に……」
2月4日に死去した安倍洋子氏(享年95)の生前のインタビューでの一幕だ。娘、妻、母の立場で、激動の日本政治史を見つめ続けた生涯だった。
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いつも安倍ファミリーの中心にいた洋子氏
洋子氏は1928年生まれ。岸信介元首相を父に持ち、安倍晋太郎元外相と結婚。次男として誕生したのが安倍晋三元首相だった。
「渋谷区富ヶ谷の自宅では2階部分に晋三夫妻、3階部分に洋子氏が暮らしていた。ファミリーの結束は固く、長男・寛信氏(元三菱商事パッケージング社長)や三男・岸信夫氏(元防衛相)の一家も交え、クリスマスや年末、誰かの誕生日と、事あるごとに集まっていました。中心にいるのはいつも洋子氏。90歳を過ぎても、フレンチのフルコースをほとんど完食していた」(安倍家周辺)
冒頭のインタビューは16年に自宅で実施され、月刊「文藝春秋」(同年6月号)に掲載されたものだ。インタビュアーを務めた政治外交ジャーナリストの岩田明子氏が振り返る。
「洋子さんからは翌年に年賀状を頂きました。書道を趣味とした岸信介氏の影響で、洋子さん自身も書展に出展するほどの腕前。年賀状も大変な達筆でした」
昭恵夫人の奔放な振る舞いを苦々しく思っていた
1960年、安保反対運動の最中には、幼い晋三氏らを抱え、デモ隊の目をかいくぐって、首相を務める父の自宅に通った。夫・晋太郎氏は63年、3回目の選挙で落選の憂き目を見たが、地元からは却って「洋子さんは苦労を知っている」(古参支援者)と信頼を集めた。そうした経験は時に厳しさを生んだ。
「洋子さんは、芸能人と飲み歩く姿がたびたび週刊誌を賑わせる、昭恵夫人の奔放な振る舞いを苦々しく思っていた。昭恵夫人が居酒屋を開店したときも猛反対していました」(同前)
19年7月、晋三氏が昭恵夫人や洋子氏らと一緒に、山梨県鳴沢村の別荘で静養したときのこと。
「晋三氏はこの年の11月、首相としての通算在職日数が桂太郎を抜いて歴代1位になる見通しだった。昭恵夫人は『あと何日で、桂さんの在職日数に達するんでしたっけ』と尋ねたそうです」(前出・岩田氏)
晋三氏も「あと何日だったかな」と嬉しそうに数えていた。そのとき洋子氏が一言、こう諭したという。
「大切なのは、何日やったかではなく、何をやったかでしょう」
突然の息子の訃報に憔悴
そんな“ゴッドマザー”最大の痛恨事は、22年7月の晋三氏暗殺だった。
「遺体が自宅に安置されている最中、洋子氏は、ひっきりなしに訪れる弔問客に毅然と対応していた。『晋三は可愛い子でした』と述懐していました。ただ実際には憔悴しきっており、昭恵さんには『死にたい』と漏らすこともあったそうです」(前出・安倍家周辺)
地元・山口県長門市の墓に納骨された晋三氏の骨壺には、美しい筆致で書かれた戒名が刻印された。洋子氏が自ら戒名を書き、それを転写したものだった。
晩年は昭恵夫人と共にグラスを傾ける仲に
それからは徐々に元気を取り戻したという洋子氏。かつては溝があった昭恵夫人とも、手を取り合って暮らすようになっていた。
「昨年の春頃、洋子さんと昭恵夫人から、岸信介氏が晋三氏に授けた掛け軸の話を伺いました。吉田松陰の座右の銘が書かれたもので、洋子さんはその意味などを理路整然と解説してくださったのですが、話の途中で昭恵夫人が気軽に『お義母さん、違うわよ』と言い出した。洋子さんは『違う違う!』と言い返していましたが、それがとても親密そうな雰囲気でした」(前出・岩田氏)
酒好きの昭恵夫人は、夜になると晩酌をする。以前は深酒を咎めていた洋子氏だが、晩年は「一杯くらい頂こうかしら」と、共にグラスを傾けたという。まるで“和解の盃”のように。
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年2月15日号)

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