埼玉県狭山市で1963年5月に女子高校生が殺害された「狭山事件」。冤罪(えんざい)を訴える石川一雄さんが1審の浦和地裁(現さいたま地裁)で死刑判決(確定判決は無期懲役)を受けてから3月11日で60年を迎える。18年目を迎えた第3次再審請求の進展が見通せない中、実兄として事件に向き合ってきた石川六造さん(88)がインタビューに応じた。自身も事件への関与を疑われたことを初めて明かすなど、当時の状況を生々しく語った。【隈元浩彦】
――第3次再審は18年目を迎えました。
◆どんな気持ちかと言われても、もうイライラしちゃってね。でも支援者の変わらぬ声に、気持ちも落ち着いてきました。
――一雄さんが別件で逮捕されたのは63年5月23日朝でしたね。
◆狭山の小さな家ですよ。そこに大勢の警察官がなだれ込んできて、寝ていた弟(一雄さん)にいきなり手錠をかけて引っ張り出そうとする。「支度ぐらいさせろ」と頼んで服を着させたんだ。「あんちゃん、俺は悪いことはやっていない」と言うので、「すぐ帰って来られる。大丈夫だ」と声をかけた。あの日(女子高生が誘拐された5月1日)の晩、弟は家にいたんだからね。ただね、ひどい調べだったことは俺にも分かるんだ。
――分かるとは?
◆弟の逮捕後、俺も警察に何度も呼ばれた。自分のアリバイも聞かれたし、弟のことも聞かれた。前後を2人ずつの刑事に囲まれた。書類にして、1人がそれを読み上げるんだけど、「そんなこと言っていない」と抗議すると、後ろから俺の頭をこう(頭を拳で押す仕草)するんだよ。俺は負けん気が強いから耐えられたけど、世間知らずの弟は……とも思ったよ。
それでね、最後にこう言うんだよ。「(犯人は)一雄じゃなくて、お前だっていいんだ」と。何が何でも俺たち兄弟のどっちかを「犯人」に仕立て上げるんだ、という恐ろしさを感じたね。アリバイが証明されてもお構いなしだ。
――63年3月に都内で起きた吉展(よしのぶ)ちゃん事件に続いて、狭山事件でも身代金受け渡し現場で犯人を取り逃がし、当時の警察への世論は厳しく、犯人逮捕は至上命令でした。
◆誰でもいいから、とにかく埼玉から「犯人」を出せばいい。そんな印象も持った。後から知ったけど、事件当日、俺が仕事に出向いた先は、警察から繰り返し俺のことを聞かれたと。「あんたがターゲットだった」とも言われた。
「お前だっていいんだ」という言葉の意味は、弟との初面会で分かった。浦和地裁(当時)で死刑判決が下り東京拘置所に移監(64年4月)後だが、弟は「あんちゃんをかばって、やってもいない事件を認めた」と。鳶(とび)として一家の大黒柱だった俺が逮捕されたら、両親ら家族の生活も立ちゆかなくなる。そういう思いだったとも聞かされた。弟は警察の調べを受ける中で、俺を疑ったのだろう。思わず怒鳴ったよ。
――被害者のものとされる万年筆が63年6月26日の家宅捜索で見つかり、最大の物証になっています。
◆それまで2回の家宅捜索があり、いずれも立会人を務めたけど徹底したものだった。3回目に来た時に「もう何もないだろう」と言ったら「いいから、ここを見てくれ」と言うんで、鴨居(かもい)に手を入れると万年筆が出てきた。過去2回、踏み台で調べた場所だ。その場で言ったよ。「誰か置いた奴がいるな」と。刑事からは「今日初めて調べたんだ」という声が上がったけど、仕掛けられたんだ。(※第2次再審請求で、1回目の家宅捜索に当たった元刑事は「万年筆はなかった」と証言している)。おかしなことだらけだ。
――被差別部落出身だから狙われたと考えますか。
◆弟が逮捕されたことや、警察で味わったことを思うと、いろいろ考えたね。親父の手に職がなかったから貧しく、俺は小学校も3年ぐらいしか通っていない。バカにされているから、こういう結果になったんだろうなと。自分ではそう思ったよ。思っても納得なんかできるわけがないけどな。
石川土建を創業して5年目のこれからという時だった。それがこの事件でしょう。死ぬにも死にきれない目にも遭ったよ。
記者の一言
当時、県警は身代金受け渡し現場に約40人の警察官を配備しながら、現れた犯人を取り逃がすミスを犯した。女子高生が遺体で見つかったのは、2日後の1963年5月4日。その1カ月ほど前には東京都内で4歳児が誘拐され、警視庁は身代金を奪われたうえ犯人に逃げられた。
相次ぐ失態に警察庁長官は辞任に追い込まれ、国家公安委員長は犯人逮捕を言明した。狭山事件は政治問題化し、早期逮捕は県警の最優先事項となっていた。六造さんの「とにかく埼玉から『犯人』を出せばいい」という回想は、苦境に追い込まれた捜査当局の事情と無縁ではあるまい。
犯人を逃した焦燥感の中で、差別意識に根ざした被差別部落への不当な「見込み捜査」が行われた。一雄さんらはそう訴えている。
石川六造(いしかわ・ろくぞう)さん
1936年埼玉県入間川町(現狭山市)生まれ。一雄さんとは3歳違い。18歳ごろから東京・浅草で鳶の修行に。59年帰郷し土建業を開業、一家の生活を支えた。事件後は被差別部落の解放運動に。部落解放同盟狭山支部長。