少しでも生前の姿に――。元日に最大震度7を観測した能登半島地震は、多くの尊い命を奪った。直後は火葬場も被災し、荼毘(だび)に付されるのを待つ遺体の傷みが進んだ。そんな中、各地から駆け付けた納棺師が、犠牲者と遺族に向き合った。化粧などで遺体を整え納棺する「おくりびと」たちに、遺族から感謝の声が届いている。
ブルーシートが敷かれた石川県輪島市の武道館の床に、袋に納められた13の遺体が安置されていた。顔に陥没があったり体の一部が裂けていたりと、想像を超える強い力が命を奪ったことを物語る。「損傷が激しい遺体や若い女性の遺体を前に、言葉がなかった。ただ、つらかった」。そう語るのは福井市の納棺師、浅野智美さん(46)。金沢市の葬儀会社からの依頼で1月6日、石川の被災地に応援に入った。
映画「おくりびと」(2008年)で注目された納棺師は、故人に化粧を施したり、体を洗い清めたりして最期の身支度を整える。浅野さんは25歳の時に転職し、20年以上のキャリアを持つ。「化粧一つ、顔の膨らみ一つで故人と遺族の最期の別れが大きく変わる」。そう肝に銘じてきた。
輪島の武道館で浅野さんらは遺体の保存措置を懸命に施した。持参したポータブル電源で湯を沸かし、付着した泥や血液を丁寧に拭き取った。そこから腐敗が進むからだ。地震直後で付き添う遺族はなく、写真もない中、うっ血などで変わってしまった顔色を身体の肌色から想像した。口元をけがした人には目元に濃い化粧をし、傷に目が行かないようにした。「時間があればもっとしてあげられることがあった。そう思うと心苦しい」と語る。
「死後の顔もその人らしく」
納棺師としての責務を改めて痛感する体験もした。
1月10~20日に赴いた金沢の斎場には、輪島などから次々と遺体が運ばれてきた。その中に、家屋の下敷きになったためか、顔が腫れて変色し、体の損傷も激しい70代くらいの女性がいた。30代くらいの息子はショックで母親を直視できない様子だった。
他の親族から生前の写真を見せてもらい、女性が念入りに整えていたという眉を濃くはっきり、角度を付けて描いた。元気で話し好きな人だったと聞き、血色がよく見えるファンデーションを塗り、目元にしっかりとアイラインを引いた。
「おかんやん!」。対面した息子は初めて笑顔を見せた。一緒に一晩過ごした息子から「地震後にぐっすり眠れたのは初めてだった」と言われ、深々と頭を下げられた。
納棺師は慰める言葉を持っているわけではないが、浅野さんは「死後の顔もその人らしく。それが遺族の安らぎにつながってほしい」と願う。
1カ月も火葬困難に
石川県によると、県内には火葬場が計13カ所あり、被害が大きかった県北部の珠洲市の1カ所と、輪島と穴水町を管轄する1カ所の計2カ所が壊れて稼働できなかった。一部が壊れた施設も複数あり、県は中南部の火葬場7カ所へ遺体を振り分けた。しかし、道路の寸断や渋滞の影響などで火葬が困難な状況は約1カ月続いた。
11年の東日本大震災でも、犠牲者の火葬が進まない問題が起きた。宮城県の6市町では2000を超える遺体がいったん土葬され、後に掘り起こして火葬される「改葬」が実施された。【井手千夏】