東日本大震災は11日、発生から13年となった。千葉県旭市飯岡地区の男性(86)と妻(82)はあの日、自宅で津波に襲われてずぶぬれになり、妻は一時、濁流にのまれた。「大きな津波は来ない」と油断し、避難が遅れたという。「思い込みで判断せず、正しい防災知識に基づいて行動してほしい」。若い世代には、こう伝えたいと願っている。(本田麻紘)
飯岡地区に11日、サイレンの音が響いていた。時計の針は午後2時46分を指している。震災が起きた時刻だ。男性と妻は自宅の庭で手を合わせ、犠牲者に黙とうをささげた。
千葉県内では津波などで22人が命を落とし、2人が行方不明となった。飯岡地区には、県内で最も高い7・6メートルの津波が押し寄せた。
◇
銚子市の商業施設で買い物をしていた13年前、男性と妻は大きな揺れを感じた。金属製の外階段が施設の外壁にぶつかり、「ガンガンガン」と大きな音を立てていた。
車で15分かけて自宅に戻ると、屋根の瓦が庭に砕け散っていた。片付けていると津波が来た。庭に水が入り、門の前の側溝のふたが流されたが、水はまもなく引いていった。
近所の人が「また津波が来るらしい」と声をかけてくれたが、男性は「大丈夫でしょう」と答えた。1960年のチリ地震の時も、波は堤防を越えなかったという。「今回も大したことにはならないだろう」。そう油断していた。
午後5時20分頃、最大波の第3波が押し寄せた。「高いところへ」。片付けを続けていた2人は、庭にあった高さ1・5メートルほどの築山に登った。黒く濁った水が渦を巻いて流れ込み、足元にまで達した。
妻は松の木にしがみついたが、勢いの強い波を頭からかぶり、手を離してしまった。あっという間に姿が見えなくなった。
夢中で濁流の中で手を振り回した男性。妻の右腕をつかみ、助け上げることができた。びしょぬれの2人は、震えながら波が引くのを待った。
◇
「海や川のそばに住みたくない」。妻は震災後、こう思うようになった。娘は県外で暮らしており、2人も引っ越すつもりで様々な土地を見て回った。
男性は迷っていた。7歳の時、東京・浅草から飯岡地区に疎開してきたといい、「故郷(浅草)に帰りたい」と思っていた。一方で、飯岡地区からも離れがたい。自宅の土地は戦後に父が買ったものだ。父の苦労を思うと、手放す気持ちになれなかった。
「僕の代だけは離れられない」。家を探し始めて半年が過ぎた頃、妻に切り出した。「しょうがないね」。近所で住まいの再建工事が始まるのを見て、妻も飯岡地区に住み続けてもいいと思えるようになっていた。
2人は、1階まで浸水した家を取り壊し、平屋の自宅を再建した。
◇
震災前の家は窓から海がよく見え、遊びに来た友人たちにうらやましがられていた。今は高い堤防に遮られて海は見えない。残念だが、2人は「安心には代えられない」と思っている。
妻は、被災後の日々を「無我夢中の13年」と振り返る。初めの2、3年は、いつでも逃げられるよう洋服を着て、テレビをつけたまま寝ていた。
当時の記憶を思い出させる庭の築山は崩した。穏やかな気持ちで暮らせるようになったのは、ここ数年のことだ。しかし、今年1月の能登半島地震で、改めて災害の恐ろしさを感じた。
「天災は忘れた頃にやってくる。13年前にあったことを風化させず、防災知識を正しく伝えていかなければいけない」。男性がそう話すと、妻も深くうなずいていた。
旭の犠牲忘れない…市民ら献花
関連死を含めた死者と行方不明者が16人にのぼる旭市では11日、市民らが献花をするなどして、犠牲者らの 冥福 を祈った。
旭市飯岡地区は13年前、最大7・6メートルの津波に襲われた。漁師をしていた妹の夫と叔父を亡くした男性(82)は、「こんなに大きな津波が来るとは思っていなかったんだろうね」とつぶやいた。妹の夫らは地震の後、海の様子を見に行って津波に巻き込まれたという。
「13年たっても忘れたことはない」と男性。最近は千葉県内で地震が続いており、「大きな被害がないか心配だ」と声を落とした。
震災慰霊碑が立てられている旭市横根の公共施設「いいおかユートピアセンター」では、午後2時46分に防災行政無線のサイレンが鳴り響き、市民らが黙とうをささげた。献花台も設置され、訪れた人たちが犠牲者に花を手向けた。
旭市の会社員(51)は、「東北の被害に目が行きがちだが、旭市での被害も風化させてはならない」と話した。