言うまでもなく都知事選挙での真の勝利者は石丸伸二氏である。彼の露出を見よ。今や時の人だ。約166万票を獲得したことの衝撃波は今も響き続けている。
この中で、各種の出口調査により世代別の石丸支持がおおむね明らかとなり、特に10代(18・19)、20代からのそれが強いと出ている。しかし注意しなくてはならないのは、少子高齢化により若者有権者の数は少ないので、絶対数としての石丸支持の世代は、有権者のボリュームゾーンである、30、40、50代であったことである。石丸支持層は、印象よりも年を取っている。とはいえ、それを差し置いてもやはり若者からの強い支持があったことは動かしがたい事実だ。
「うちの息子が動画を見て石丸のファンになった」。こういう声を選挙後、本当によく聞くようになった。その場合の子息の年齢は大体においてティーンである。居住地も東京に限らない。全国の若年層の中には、主に動画で石丸に触れ、感化されているものが多い。
この理由は実にシンプルである。若年層は総体的に知識量が少なく、人生経験も途上な場合が多い。よって極めて単純で抽象的なフレーズを動画の中で発する石丸に惹かれるのだ。
裏を返せばこのような若年層は、小池百合子氏や蓮舫氏の言っていることすら「小難しく」感じる。彼女たちの言っていることが良く理解できないし、長いと感じる。それに対して石丸は、具体的な政策を言わず、日本の危機や東京を動かす、といった漠然としたこと「のみ」しか言わない。それが若年層の心をつかんだのだ。
石丸は確かに動画を駆使した。主にユーチューブやティックトックである。だが、小池や蓮舫も都知事選挙では動画発信に注力していた。石丸だけが動画を使っていたわけではない。繰り返すように、小池や蓮舫の言う、7つのゼロや行財政改革すらも、その言葉の意味を理解するだけの知識や知性が足りない一部の若年層が、石丸を支持したのだ。
これは「幼稚化」といってよいのだろうか。18、19歳といえば誕生日の関係もあるが、高校3年生か、大学生などになる。さすがに分別がついてきた年頃だと思うがどうだろうか。
ところで最近、「激辛ポテトチップス」を食べた都内の高校生14人が救急車で運ばれるという事件があった。負傷者には悪いが、ティーンにはよくある悪ふざけである。こういう「ノリ」で馬鹿なことをやってしまう経験は、多くの人が持っているだろう。私が高校生だった1990年代後半にも、この手の同級生はいた。
若年層は人格形成が途上であり、教育で身に付けた後天的な人格よりも、生まれ持って備わった個性がより色濃く出る傾向が強い。だから粗暴な性質や、逆に慎重で思慮深い性格、或いは記憶力や学習速度において、その者の生来の個性がかなり表出される年代である。高校生でずば抜けて大人びており、読書量が豊富で分析眼に富んでいるものがいる一方で、極めて幼稚な同年代も大勢いる。だから、激辛ポテチを食べるチェレンジに躍起になっている者の陰で、それを「子供っぽい」と言って冷笑している者も少なくはないのである。
事程左様にティーンは成長段階であるから、いまだその者が生来持つ「幼稚さ」が教育や社会経験によって平準化されておらず、その中でも幼稚な性質のものが石丸に感化されるというのは、確かに頷けるところがあるのではないか。
その証拠に、若年層の出口調査では確かに石丸支持は強いが、それなりに小池、蓮舫やその他候補への支持も少なくはなかった。立候補者が何を言っているのか。その政策を短い動画だけではなく、長い文章や討論会の中で吟味し、じっくり投票先を決める。そうした有権者にあって当たり前の態度で投票に臨んだ若年層も少なくはないのだ。ただ、相対的にその割合が低かったというだけの話である。
ここまで読んでお気づきのことと思うが、若年層、特にティーンが石丸を支持するのは、その善悪は別として、まあ当然といえば当然だ。問題なのは、石丸支持の数的なボリュームゾーンである、30・40・50代が、ティーンの一部と同じような幼稚性を持っている、ということだ。こちらの方がはるかに深刻である。
現在、石丸が出している著作は二冊。『覚悟の論理』と『シン・日本列島改造論』である。特に『覚悟の~』の方は、商業出版のレベルに到達していない、というほど酷い内容だ。石丸が約4年、広島県安芸高田市市長として実行した業績などは概略しか書かれておらず、「なりたい自分や人生を達成するための方法」みたいなものが延々と書かれている。典型的な自己啓発本で、中身は何もない。
石丸は前掲書の中で、そうした目標を達成するためには、「戦略・作戦・戦術」の三つの要素が最も重要であり、このような考え方を、かわぐちかいじ氏の漫画『沈黙の艦隊』で学んだと豪語している。ふつう、一般的な教養があればここで引用するのはクラウゼヴィッツの『戦争論』なのではないかと思うがそれはさておき、私も漫画読みなので言わせてもらえば、『沈黙の艦隊』はそういう作品ではないような気がする。
一方、『シン・日本列島改造論』の方は直近6月に出版されたばかりで、石丸が東京都知事選挙への立候補決意を公表していることが前提のため、『覚悟の~』よりはさすがに筆が入っている印象がある。しかしこちらも結局は、総花的な天下国家論への記述があるばかりで、なぜいま東京都知事選挙に立候補する必要があったのか、という出馬動機のところはひどく曖昧なまま、逃げるようにして日本の将来への危機意識で終わる。
2冊の本は読む価値のない資源○ミだと私には映った(私は電子書籍で購入したので、その心配はない)のだが、これを読んで「石丸を支持する」という思考回路になる、いい歳をした30~50代の方が、よほど社会として問題なのではないか。
しかし驚くことに実際、石丸支持の多くはこの本すら読んでいない。その情報源は相変わらずユーチューブやティックトックからである。特に前者のユーチューブが多い。
いい歳をした石丸支持者が私の周辺にはあまりおらず、具体的な事例を抽出するためにどうしようかと考えていた矢先、私は過去に知人だったA氏(以下A)のことを思い出した。
Aと私は、20代の時にSNS上で知り合って仲良くなった。彼は私より4個上ぐらいだったが、Aは会社を立ち上げたい(起業)というので何度かリアルで会った。
Aは数年前までバックパッカーで世界中を旅して日本に帰国した後、日本の停滞した現状に危機感を抱き、起業することで社会を変えたい、と熱っぽく語った。しかし具体的な知識や教養があるわけではなかった。衆議院と参議院の違いすら良く分かっていないようだった。世の中のことをまるで知らず、その知識水準は極めて低く浅はかだ。ただ情熱と話の面白さだけはあった。Aはそんな人だった。
最初はひょうきんな人物だと思っていたが、何度か会ううちに、Aの危うさが鮮明になってきた。起業といっても自己資金はほぼゼロであり、事業計画も曖昧なもので収益性も怪しく、到底Aの話に乗ることはできない、と私は思った。
なによりAの危うさは、「起業の勉強」と称して都内で開催されているその手のセミナーに頻繁に通っており、むしろそうしたセミナーに参加することが目的化しているように思えたこと。そして起業における教科書といって彼が愛読していたのが服役経験のある著名実業家の本だったことだ。
Aと私はほどなく疎遠になった。私がAの浅はかさを見透かして、それが態度に出てしまったことでAが気分を害したのが直接の原因だったと思う。そして具体的な話になると、抽象的な話でごまかすAの不誠実さに私が決定的な不信感を持ったからだ。
あれから15年近くが経過して、今般私はAのことをふと思い出し、SNSでAの名前を検索したらヒットした。見事なまでに石丸支持者に変貌していたAがそこに居た。おそらく現在、43歳か44歳というところだろう。
若年層の一部が、石丸を支持するのは繰り返すように、その知識や経験が少ないがゆえの、ある意味「生理的」な現象といえよう。
いま石丸を支持している若者の多くは、加齢するにつれてより知識を得、また社会経験を通じてより具体的な事象に関心を持つようになり、石丸の空っぽさに惹かれたのは「若気の至りの一種」と悟るだろう。人間の成長段階において、相対的に未熟な若年層が石丸に惹かれるのは、シンプルな理屈であり、驚くべきことではない。
問題は、ほんらい未熟で幼稚ではないはずの30~50代の支持層である。
民主主義社会に生きる市民には、最低限度の作法(マナー)が存在する。それは政党や政治家個人が何を言い、何をやって来たのか。はたまた、してこなかったのか。総体として最低限の批判や点検(もちろん肯定でもよい)の前提となる知識を、自分から主体的に取得することだ。それは結果として動画やSNSでもよいが、ふつう3、4分の動画のみでは不可能だから、自然と新聞や出版物への接触というふうになる。
これすらできていない30~50代が少なくとも東京にはかなり多く存在するのだ。もう立派な「市民」なのにもかかわらず、小池や蓮舫の言っていることですらも「難しい」「長い」と感じてしまう「成人」が、たくさんいるという事実はいささか恐怖である。
拙著『シニア右翼』(中央公論新社)でも詳述したのだが、いま、「ひとつの物事に対して長く集中して向き合うことができない」という人が、ミドル層やシニア層に増えている。2時間の映画すら見ることができず、15分に短縮したファスト映画に飛びつく者は、若者ばかりではない。
SNSやネット動画は「若者特有のツール」というステレオタイプな見方が多いが、とりわけアプリケーションの導入が必要なく、クリックのみで視聴できるユーチューブへの接触は、高齢層の中で絶対的に優位になっている、というのが各種の調査で裏付けられている。もはや動画の世界は、ユーザーの高齢化が進んで久しいのだ。
いい歳をしたミドル層以上が、石丸を支持するという傾向は、ひいてはそれまでの人生で具体的な民主主義教育を受けてこなかったか、受けてきたとしても忘れたか、最初から具体的な政治課題について無関心だったのかのいずれかである。個人的な感触しては最後の部分だと思う。
私はこれまで、さまざまな国の人と政治的な対話を行ってきた。韓国、台湾、中国、フィリピン、マレーシア、タイ、インド、ベトナム、インドネシア……。アジア圏に限っても、その国や社会が抱える政治的な課題やニュースについて、「良く分からない」「興味がない」というふうに回答する人間は一人もいなかった。知識の濃淡はあるが、みな、それなりに自分の考え方を話し、討議する。それが当たり前だ。
そしてそれはどんな社会階層――例えば大学院卒のインテリから、ティーンから、工場労働者や商店従業員まで――であっても、「知らない」「難しくて良く分からない」と答える者は居ない。
日本人の、とりわけいい歳をした成人だけが、圧倒的に「良く分からない」「興味がない」「難しくからよく知らない」と回答して、それを恥だと感じていない。こんなに政治的な知識が乏しく、無教養の市民は、私は少なくともアジアにおいて日本だけだと思う。
そしてそうやって、政治的な事象について「良く分からない」「難しい」「興味がない」「知らない」と回答するいい歳をした日本人の成人は、絶対に二の句でこのように言う。
「もっと分かりやすく話してほしい」
ユークリッド幾何学の話をしているのではない。少子高齢化や社会福祉や財政や政治家の疑獄の話をしているのである。これ以上何を分かりやすく話せばいいというのか。「福祉」「財政」という単語の意味から解説しなければならないのだとすれば、それはもう政治の問題などではなく教育分野か、はたまたそれこそ純然たる個人の問題である。
要するにこの手の話題ですら「難しい」「良く分からない」と感じる一部の有権者は、具体的な政策が何もなく、かつ具体的な単語がほぼ出現しない、「石丸レベル」でようやく理解できる。何のことはない、既存政治や政党への批判とかそういうレベルではなく、「石丸水準の話ならば、分かる(分かったような気になる)」というだけの構造である。
石丸人気があるとして、それは今後も続くのだろうか。おおいに続くであろう。それは石丸個人の人気という部分もあるが、それよりも「石丸水準の抽象的な話の内容で、やっと理解することができる有権者」が今後も増えていくと予想されるからだ。
このまま進むと、近い将来の国政選挙では、「衆議院とか参議院とか汚職とか難しいことはどうでもいいんです。ただ、居眠りしている議員は許せない。税金泥棒。恥を知れ恥を。私はそんな日本を変えたいんです」みたいな演説で、日本の街頭は埋め尽くされる気がする。そうして政治に残るのは、中身が何もない、具体的な政策が何もないパッション(情熱)だけになる。
だが、具体的な知識の土台の上に立たない情熱は、すぐさま冷却し、消費されるだろう。そしてまた別の人間が、フレーズを少しだけ変えて同じようなパッションを叫び続けるだろう。
そして具体的な知識が無いので何も政策を立案することもできず、また実行することもできないまま、日本はいよいよ三等国となって、永い黄昏の時代を、日本人は向こう数世代にわたって生き続けることになるだろう。
石丸現象は、日本人全体の知性の劣化と、幼稚化の結果であり、それは今後も拡大していくことは間違いない。
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(文筆家 古谷 経衡)