〈〈能登半島地震から4カ月〉倒壊した家屋の前に並べられた猫の置物の理由、ガレキに供えられた花…家も職も失った酒屋店主は「最近1番うれしかったことは仮設住宅に入れたこと」 〉から続く
多くの人が穏やかな元日のだんらんを過ごしていた夕方、最大震度7の大地震が能登半島を襲った。未曾有の大震災の発生から7ヶ月以上が経った今も、石川県・輪島朝市通り周辺には、倒壊した家屋やビルが多数残っている。被害の象徴といわれる7階建ての「五島屋ビル」は耐震性の高い鉄筋コンクリート造だったが、根元からぽっきり折れて横倒し、国土交通省などによる原因の究明が続けられている。倒壊した五島屋ビルに自宅兼店舗を押しつぶされ、妻・由香利さん(48)と長女・珠蘭さん(19)を失った楠健二さん(56)が、改めてその胸中を語った。
〈写真で見る輪島市の現状〉妻子の命を奪った隣接ビルの倒壊、いまだ手つかずの瓦礫、復興の道はまだまだ遠い
「痛い」「助けて」「水飲みたい」と、目の前で娘が叫んでいた
能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市。記者は震災発生直後に一度取材に訪れているが、改めて朝市通り周辺を歩いてみると、いまだに骨組みだけになってしまった建物や、地面から突き出るように飛び出したマンホールが至るところにあった。歩道についても、補修されてないところがまだまだある。地震発生当時からたびたび“震災の負のシンボル”として取り上げられた「五島屋ビル」も、時間が止まったようにその巨体を横たえたままだ。
五島屋ビルの下敷きになり、生き埋めになってしまった妻と長女の救出作業を涙ながらに見守っていた男性の姿を、記者もよく覚えている。五島屋ビルに隣接していた居酒屋「わじまんま」の店主・楠健二さん(56)だ。現在は、かつて家族と30年近く暮らした神奈川県川崎市に移り、店舗を再開させている。
当時のことを、楠さんは沈痛な表情で振り返った。「元日は妻と長女と次男と次女で、店の上にある3階の自宅で過ごしていた。そのときに地震が起きた。1回目の揺れが驚くほど大きかったから外へ避難しようと着替えていたら、すぐに2回目の強い揺れがきた。そのとき、背中にガーンという衝撃があって、そこから記憶がなく、飼っていた犬のワンワンという声で気がついた。どうなっているのかさっぱり理解できなかったけど、でもいつの間にか1階にいて、上を見たらビルがある。それでビルが倒れてきたのかって……」
次に意識が戻ったときに楠さんは立ち上がり、瓦礫に埋もれていた次男と次女を救い出した。そのあとに妻と長女の姿を探すと、2人は瓦礫に挟まれ、動かすことができなかったという。
「女房はかろうじて手を動かすことができたけど、もう話をすることはできなかった。娘は足が完全に瓦礫に挟まっていて動けなかったけど、まだ話すことができていた。『痛い』『助けて』『水飲みたい』って、目の前で娘が叫んでいたんだ。娘は、その2日後までずっと話ができた。何度も水を飲ませた。『このままじゃ死んじゃうかもしれねえ』って思って……。挟まっている足を切断すれば娘は助かるかもって思ったけど、俺にはできなかった……。助け出すために『片方の足をずらせないか』って娘に尋ねると、『それ、私の足じゃない』って言っていて……。娘はもう足の感覚がなくなっていたんだ。気が変になりそうだったよ」
「『ビルが昔の造りだから』という理由だけで、済ますつもりはない」
地元消防団に救出されたときには、長女は低体温症で亡くなっていた。その後、大阪消防隊が駆けつけ妻を救出したが、すでに圧迫死していたという。「娘はまだ生きていたんだよ。低体温症っていうけど、『消防団が温めておけば』『もう少し早く助けてくれれば』ってどうしても思ってしまう。一生懸命やってくれたのはわかっているんだけど。五島屋ビルにしたって、なんで倒れたんだよって思ってしまう。倒れないように打たれたはずの杭が折れるって……何のための杭ってことになるじゃないか」
災害による被害が甚大な場合、市町村が建物の解体・撤去を所有者に代わって行う「公費解体」という制度があるが、これが本格的に始まったのは6月から。五島屋ビルの所有者・五嶋躍治氏は公費解体の申請を出しているが、実施についての目処は立っていない。杭基礎(くいきそ)で支えられていた建物が地震で倒壊するのは、国内で初めての事例の可能性もある。国土交通省は、倒壊に至った経緯を現在調査中だ。
楠さんが、現状について次のように語る。「国は俺のために調べるんじゃなくて、今後のために調べる。だから、俺は俺で調べなきゃいけないと思って、構造建築士に依頼して調査している。一方で、輪島市は倒れたビルの道路にせりだしている部分をすぐ解体したいということだった。輪島市はとにかく道路を繋げたいという思いなんだけど、俺は『2人も亡くなっているんだから待ってくれ』って言っていた。
誰も犠牲が出てなければいいけど、犠牲が出ている以上、何が原因だったのかすべてを知りたいだけなんだ。目をつむると、すぐにあのときの光景が浮かんでくる。夜眠るときだって、目を閉じられない。だから、寝落ちするまで携帯や天井を見ているんだ。俺は生かされてしまった。だから、原因を知る責任だってある。『ビルが昔の造りだから』という理由だけで、俺は済ますつもりはない」
携帯電話に残された、2023年12月31日の写真
公費解体の申請が出ている以上、輪島市が解体しようと思えば、いつでも五島屋ビルを解体できるという。だが、国土交通省が原因究明に乗り出したため、解体を待つよう輪島市に要請を出している。国土交通省による調査は現状、有識者が調査する方法を模索している段階で、今秋には何らかの方針が決定する予定だ。まだ調査にはしばらく時間がかかりそうだが、楠さんはそれについてどう思っているのか。
「原因がわかったとしても、すべてが片付くということではない。でも、あのビルが解体されて更地になったときに、ひとつ区切りはつくのかなとは思っている。ふだん、だらしなくても、いざというときに家族を助けるのが親父って思っていたから。俺にはそれができなかった。その負い目は、ずっと残るんだろうけど。ただ、1日でも早く解体してほしいかって聞かれると、どうだろうな。こっち(川崎市)に来て、『地震はもう終わった』と思っている人をたくさん見てきた。でも、輪島市の人みんながパッと地元から出ていけるわけじゃないし、輪島市の状況は伝えていかなきゃいけないって思っている。
俺が今できることといえば、魚もそうだけど、お店で使う伝票もビニール袋も、パックだって輪島市から取り寄せている。朝市がなくなって、飲食店もあれだけなくなって、きっと困っているはず。そういう部分を考えると、事態を風化させないために、あのビルをそのままにしておいてもいいんじゃないかって思いもある。もちろん、現実的にそれは無理だってわかっているけど。悲しみが癒えることはないのかもしれないけど、とにかく何かをやらなきゃ始まらない。そんな思いで生きている」
倒壊した家屋から出てきた古い携帯電話には、2023年12月31日にみんなで「NHK紅白歌合戦」を見ていたときに撮影した家族写真が収められている。楠さんは、今はまだその携帯電話には触れずにいるという。
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班写真/幸多潤平