斎藤知事は、「いつ」辞めるのか。政治をめぐる話題では、自民党総裁選も、立憲民主党代表選も蹴散らして、多くの人の注目を集めている。
9月11日の定例記者会見では、涙を見せたものの、続投する意向を貫いた。なぜ辞めないのか。誰もが疑問に思う。ここまで袋叩きにあいながら、なおも耐え忍ぶメンタルは、強いのか、鈍感なのか。彼自身の性格、あるいは、金銭面を含めた事情にも関心が集まる。
テレビもネットも、「パワハラ」や「おねだり」、といった、さまざまな疑惑を、これでもか、と繰り返し報じている。9月19日には、兵庫県議会に斎藤知事の不信任案が提出される見込みで、もはや、辞める/辞めない、よりも、「いつ」辞めるのかに焦点が移っている。
真相はどうだとしても、少なくとも2人が、この件に関連するとみられる経緯で亡くなっている以上、身を引く以外に選択肢はないだろう。
斎藤知事に、その地位にふさわしい能力や見識があったのか。そう問われれば、ほとんどの人が「否」と答えるだろう。もはや、メディアのおもちゃになってしまった斎藤知事を、いまさらどれだけ責めたところで、益は少ない。擁立した維新の会の責任は免れないし、知事を支えきれず、暴走させた側近たちの罪は重い。
それよりも筆者が興味深く感じるのは、「兵庫県知事の特徴」である。他の都道府県知事と比べたときに明らかになる、その性質が、今回の騒動を招いた一因と考えられるからである。
戦後、兵庫県知事は、斎藤知事を含めて7人いる。そのうち5人が、東京大学(東京帝国大学)を卒業し、いまの総務省や、その前身の自治省、内務省の出身、というところである。それも、60年以上にわたって、同じような経歴の人物が知事に就任しているのである。国から派遣されてきたキャリア官僚そのままの視線で、兵庫県政にあたろうとしてきたから、いままで、いくつもの齟齬をきたしてきたのではないか。
例えば、29年前、阪神・淡路大震災時の知事・貝原俊民氏を振り返ろう。貝原氏は、佐賀県出身で、東大卒業後、自治省に入り、兵庫県副知事を6年間務めてから、1986年に知事に就く。3期目の途中で起きた震災当日、車で10分ほどの、県庁からおよそ3キロ離れた神戸市中央区の職員公舎から到着まで2時間半もかけた。
当時の読売新聞(1995年2月23日夕刊)は、「電話を何度もかけ直し、やっと県庁とつながった。職員にマイカーで迎えに来てもらい、5階の災害対策本部に入ったのは午前9時。震災発生から3時間余り過ぎていた」と報じている。
スマホはおろか、ケータイもまだ広まっておらず、「危機管理」という言葉も考え方も広まっていない時代なので、割り引く必要はあろう。とはいえ、あの大混乱の最中に、電話をかけまくったり、職員に迎えに来させたりする姿勢は、いかにも、東京から来た、「お殿様」そのものではないか。
斎藤知事の先代の井戸敏三氏は、どうだったか。井戸氏は、兵庫県新宮町(現たつの市)出身だが、東京の日比谷高校を卒業し、東京大学から貝原氏と同じく自治省に進む。副知事から県知事へ、という経歴も同氏をなぞっている。
そんな井戸氏が全国に名をとどろかせたのは、「関東で震災が起きれば(東京が)相当なダメージを受ける。これはチャンス。チャンスを活かさなければならない」との失言だった。2008年11月11日に和歌山市で開かれた近畿ブロック知事会議でのこの発言で、その後、謝罪、撤回に追い込まれている。
内容だけで非難に値するばかりか、あまつさえ阪神・淡路大震災の被災地だった兵庫県の知事が、どうしたら、こういう発想に至るのだろうか。そこには、貝原氏の危機意識の薄さと通底する、東京からの「お客さま気分」が漂っているのではないか。
いまの斎藤元彦知事もまた、彼らの系譜に棹さしている。
なるほど、斎藤氏は、前知事の井戸氏が後継に指名した当時の副知事を選挙で破ったから、東大から自治省、そして、副知事を経て知事へ、という戦後の兵庫県の流れを断ち切ってはいる。
また、総務官僚出身の知事は、いまでも全国47都道府県知事のうち11人を占める。過半数の25人が中央省庁のキャリア組出身であり、27人が東京大学出身である。とりたてて兵庫県だけが変わっているわけではないとも考えられる。
しかし、同じ近畿圏の府県と比べると、どうか。
お隣の大阪府は、いまの吉村洋文知事や、前の松井一郎氏、その前の橋下徹氏や、さらに前の太田房江氏、のように、経歴も性別もバラけている。京都府も、キャリア官僚出身者が多いものの、その前、1950年から28年間にわたって旧・日本社会党などの革新系勢力が支持した蜷川虎三氏が知事を務めていた。
あるいは、2024年現在の人口で兵庫県(約546万人)と同規模の500万人程度の自治体と比較してみよう。北海道(約522万人)の現知事は、東京都職員出身の鈴木直道氏であり、福岡県(約513万人)は同県職員だった服部誠太郎氏である。しかも、ともに、歴代知事は、官僚以外にも、学者をはじめとして多様なバックグラウンドを持っていた。
この2つの自治体に限らず、東京都知事を見れば明らかなように、都道府県知事とは、戦前の官選、つまり、国が選んで派遣する時代とは大きく変化しているし、何よりも、それが民主化の象徴だったのではないか。
斎藤知事は、兵庫県知事選びの流れを止めたとは言うものの、それでも、他の都道府県に照らせば、兵庫県知事の「独特な性格」を受け継いでいる。日本の「高学歴」の代表とされる東京大学を出て、「地方」を統括する総務省を経て、天下りのように兵庫県に舞い降りる。
そんな経歴を持つ人が、どれだけ、真摯に兵庫県を考えているだろうか。
斎藤知事は、たしかに、神戸市須磨区出身であり、自身のウェブサイトにも、地元でケミカルシューズ製造業を営んでいた祖父との思い出を記している。名前の由来が、元兵庫県知事の金井元彦氏だというエピソードは、今回の一連の騒動で、有名になった。
なお、その金井氏もまた、東京大学(東京帝国大学)を卒業し、当時の内務省、すなわち、いまの総務省に入ってから、兵庫県の副知事を経て、県知事になっている。
もちろん、どんな経歴であろうと、その人に何ができるのか、が大切なのは言うまでもない。どこの大学を出ていようと、どの省庁で働いた経験があろうと、副知事であったとしても、県民に奉仕する姿勢と能力があれば良い。
実際、斎藤知事が、前の副知事よりも支持を集めた理由は、それまでの兵庫県知事の「出来レース」を拒否した民意があったに違いない。「県政の刷新」を掲げる若い知事に向けられた期待は大きかった。かたくなと見えるほどに辞任を拒むのは、その選挙の経緯があり、自分は県民に支持されているはずだとの確信があるのだろう。
けれども、その確信こそが、勘違いなのではないか。
斎藤知事は、3年前に当選した時、全国の知事の中で3番目に若く、戦後の兵庫県知事としては歴代最年少だった。推薦した日本維新の会では、大阪府以外で初の知事を生み出したとして、大きな期待を背負っていた。古臭い兵庫県を変えてくれるのではないか、そんな県民の希望を託されていた。
その願いが、今回は、裏目に出ている。副知事経験のなさは、しがらみとは無縁だったものの、かえって、強引な人事に走る元になったのではないか。
そして、東大出身の総務官僚である斎藤知事は、結局、歴代の知事以上に、東京から来た「お殿様」として、ふるまってきたのではないか。だからこそ、「パワハラ」や「おねだり」、といった、さまざまな疑惑が噴出したように見受けられる。
期待の大きさの分だけ、失望もまた同じか、それ以上に深い。
斎藤知事への不満の高まりは、県民の堪忍袋の緒が切れた結果なのである。いい加減、「お殿様」の上から目線に耐え切れなくなったからなのである。
その怒りは、彼が辞めたとしても、もう、収まりはしないだろう。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)