「爆発で人が飛び散った」 9人家族、旧満州から帰国は母と2人だけ

船が舞鶴港(京都府舞鶴市)に着いた時は、身も心も緊張感から解放され、我を忘れて喜び合った。心温まるもてなし、8年ぶりに触れる日本人の心に感動で身が震えた――。
日中戦争中の1940年、旧満州(現中国東北部)で生まれた石川県野々市市の平野悦子さん(84)は、旧ソ連の対日参戦に伴う10カ月に及ぶ逃避行で幾多の辛苦を味わった。9人いた家族のうち、無事に帰国できたのは平野さんと母冨子さんの2人だけ。幼い頃の壮絶な経験によって当時の記憶は失ってしまったが、叔父が生前に残した逃避行の手記などを基に、今も語り部活動を続けている。「こんなに悲しい歴史は二度と繰り返してはいけない」という思いを込めて。
同県富奥村(現在の野々市市)出身の平野さんの父政雄さんは38年、国策の満州開拓団の一員としてソ連との国境近くの村に入植。その後、知人男性の妹と結婚し、日本から妹や両親らを呼び寄せた。まもなく長女の平野さんが生まれ、貧しいながらも家族そろって幸せな生活を送っていた。
しかし、戦況が悪化し状況が一変。45年4月に父は軍に召集され、8月15日の終戦で武装解除された後、ソ連の強制収容所に連行された。
また開拓村でも、8月に入って旧ソ連軍が満州に侵攻してきたため、当時5歳だった平野さんは母や祖父母らとともに着の身着のまま村を飛び出した。避難列車に乗り込み東安駅まで移動したが、そこで駅に置かれていた大量の弾薬が突然爆発し、500人以上が亡くなった。平野さんはこの事件のショックで家族の顔や当時の生活など、ほとんどの記憶を失ってしまったが、「目の前にいた人が飛び散って亡くなった光景は、79年たった今でもまぶたに焼き付いている」と語る。
その後、家族は原野や山中を歩いて南下したが、飢餓や伝染病、犯罪者集団などに何度も苦しめられた。途中、歩けなくなった祖母(58歳)を山中に置き去りにし、9月には2歳の妹が栄養失調で死亡。11月には生まれたばかりの妹も亡くなり、12月には祖父(56歳)も病気で亡くなった。
体に縄をくくりつけて広い川を渡ったり、冬は氷点下30度以下になる夜を耐え忍んだりしながら約10カ月かけて約1000キロを歩き抜き、日本行きの船が出ている満州南部の葫蘆(ころ)島に到着。46年6月にようやく古里に戻ることができた。
収容所に連行された父が同年2月に30歳で亡くなっていたことは、帰国後、国からの戦死報告書で知った。まだ10代だった父のきょうだい2人も満州で戦死したり、病死したりしたという。
満州のことをほとんど話さなかった母が2012年に亡くなり、遺品の中から叔父が書いた手記「我が苦闘の歴史」が見つかった。そこには当時の満州での生活や、逃避行の途中で平野さんたちと合流して行動を共にした様子などが詳しく記されていた。
手記をきっかけに自分の過去と向き合うことができた平野さんは、旧満州からの引き揚げ者らでつくる北陸満友会を知り、会員として語り部活動をするようになった。
18年には旧ソ連慰霊友好親善訪問団の一員としてシベリアを初めて訪問し、父が眠る方角に手を合わせた。平野さんは「大きな夢を持って満州に渡り、ようやく完成した新築の家に住むこともなく亡くなった。どれだけ悔しい思いをしたのか…」と父の無念に思いをはせたという。
今年はうれしいこともあった。野々市市の市民団体・N劇が先月下旬、平野さんの体験を基にした演劇を披露した。平野さん役を演じたり、体験を聞き取って脚本を書いたりしのは20代の若者たち。平野さんは「自分がやらないと、と思っていたことを若い人たちがやってくれたことがうれしい」と喜ぶ。
「原爆が落とされた広島や長崎のことは誰もが知っているが、旧満州で何があったのかあまり知られていない」と感じてきた平野さん。「これからも平和な世の中が続いていくように、若い人たちにもっと当時のことを知ってもらいたい」と力を込めた。【阿部弘賢】

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