「死んでも靖国には行かない」。特攻死した22歳の青年が妹に託した思い

今から80年前の1944年、太平洋戦争で戦況が悪化していた旧日本軍はフィリピンで初めて特攻に踏み切った。爆弾を抱えた航空機や潜水艇でアメリカ軍などの艦艇に体当たりするという無謀な作戦で、特攻戦死者は6千人以上に上ったとされる。 その中に、自身のような特攻隊員を「一器械」と形容し、敗戦を予見していた学徒兵がいた。22歳で戦死した上原良司(うえはら・りょうじ)だ。出撃前夜には「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」との遺書を書き残した。 妹の登志江(としえ)さん(94)は「特攻は死刑みたいなもの」と言う。出撃前に帰省した兄は戦死を予感していたのか、自分だけに「死んでも靖国神社には行かない」と語っていた。家族との別れ際、兄は大声で3回「さようなら」と叫んだ。登志江さんは今も、その姿を忘れることができない。(共同通信=黒木和磨)
▽最初の航空特攻は1944年10月
出撃する神風特別攻撃隊=1944年10月、フィリピン・マバラカットの飛行場
特攻は太平洋戦争末期に陸海軍が部隊を編成し、最初の航空特攻は1944年10月、フィリピンで海軍の神風特別攻撃隊が実行した。 人間魚雷「回天」や特攻艇「震洋」も作戦に使われた。特攻隊戦没者慰霊顕彰会(東京)の近年のまとめによると、特攻戦死者数は6371人(海軍4146人、陸軍2225人)に上る。 神風特別攻撃隊がレイテ沖海戦で米艦船に体当たり攻撃してから80年となった10月25日には、出撃拠点だった北部ルソン島マバラカットの飛行場跡で慰霊祭が開かれるなど、記憶の継承は今も続いている。
▽出撃前夜の遺書
特攻戦死した上原良司が出撃前夜に記した遺書「所感」のコピー。「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」と書かれている
特攻隊員を「一器械」と表現した上原良司は、長野県安曇野市(旧有明村)で、医院を営んでいた父寅太郎と母与志江の三男として育った。慶応大経済学部在学中の43年に学徒出陣。45年5月11日、沖縄戦への出撃基地だった鹿児島県の旧日本陸軍知覧飛行場から飛び立ち、沖縄の洋上で米海軍機動部隊に特攻し、死亡した。 出撃前夜に書いた「所感」と題した遺書は、戦没学生の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に掲載され、後世の人々に広く知られることになった。 遺書にはこう書かれていた。 「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」 「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる」 「一器械である吾人は何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」。 妹の登志江さんは「兄は戦争で死んだ人たちの無念を代弁したのだと思う」と、兄の言葉を誇りに思ってきた。
▽出撃前、「死んでも靖国には行かない」
見習士官時代の上原良司=1944年7月ごろ
登志江さんは、出撃の約1カ月前に兄が帰省した時の記憶がある。当時は女学校の学生だった。自宅の中で2人だけで顔を合わせた際に「死んでも靖国神社には行かない。天国に行くからね」と淡々と語っていた。 5人のきょうだいの末っ子だった登志江さんは「まだ小さい私なら話しやすかったんですかね。私ならそういうことを言ってもいいと思ったのかな」と振り返る。 お手伝いの女性らと夕食を囲んだ際は兄は「日本は負けるよ」とも口にした。驚いて、誰かに聞かれていないか心配になり、慌てて雨戸を閉めた。 兄は帰省を終えて家を出た際、見送る家族に大きな声で3回「さようなら」と言った。当時は深く考えなかったが、母が「もう帰らないんじゃないか」と漏らしたことを覚えている。兄が特攻隊員だった事実は戦死後に知った。
▽靖国に行く母に、兄の言葉伝えられず
特攻戦死した上原良司の記憶を語る妹の登志江さん
上原家は長男良春と次男龍二も戦争で亡くした。戦後、母は靖国神社への参拝を続けた。そんな母に、登志江さんは「死んでも靖国神社には行かない」という兄の言葉を伝えることはできなかった。登志江さん自身は兄の言葉が引っかかり、母の死後は靖国神社に足が向かないという。その理由をこう考えている。「国のために命をささげたとか美化するようなことは私の気持ちに合わない」 兄は最期、どんな気持ちだったろうか。想像するとたまらない気持ちになり、涙が出てくる。「いっそ『お国のために』と思って逝ったほうが幸せだったかもしれない」

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