昨年11月、米ノースカロライナ州の学校で約200人の中学生らが日本人男性の話に耳を傾けていた。視線の先にいたのは長崎の被爆医師朝長万左男さん(81)だ。「被爆者の平均年齢は85歳になりました。その多くが、複数のがんや白血病を発症しています」。体に負ったやけどやケロイド、高まるがんリスク…。生涯にわたる核被害の実相を説明すると、会場は静まりかえった。 1945年8月に広島と長崎で原爆に遭った人々は、身を削りながら惨禍の記憶を語り、被害の実相を世界に突き付けてきた。「核なき明日」を願い、海を越えて平和の種をまく被爆者と、思いをつなぐ次世代の声を聞いた。(共同通信=齋藤由季花、今村未生、黒木和磨、兼次亜衣子)
▽被害の実相伝えるため、3万キロを移動
被爆体験を証言した後、聴衆から感想を伝えられる三田村静子さん(左から2人目)=米ノースカロライナ州ローリー
朝長さんが経験を語ったのは、長崎の被爆者団体「長崎県被爆者手帳友の会」が被爆者や2世3世ら代表団を米国に派遣したキャラバン。3地方都市の学校や教会など約20カ所で証言や市民との対話を重ねた。被爆者の三田村静子さん(82)は紙芝居でも体験を伝えた。 総移動距離約3万キロの旅を強行した背景にはあるものは何か。それは、核廃絶を世界で発信してきた団長の朝長さんの問題意識だ。「核保有国の市民ときちんと対話できておらず、廃絶運動が浸透していない」
▽米国は「深刻な状況に直面」
講演後、少年(右)から質問を受ける朝長万左男さん=2023年11月、米ノースカロライナ州ダーラム(共同)
朝長さんは2歳で被爆した。爆心地から2・5キロで倒壊した自宅から母に助け出された。その後に医師となり原爆の後遺症を研究する。国連など国際舞台でも健康被害を証言している。 だが今も世界に核弾頭が1万発以上存在し、ロシアやイスラエルは核の脅しを繰り返す。別の日の講演では「核戦争が起きる可能性がある。あなた方は深刻な状況に直面している」と強調した。 キャラバンで被爆者たちが交流した相手は延べ千人に上った。朝長さんは「核をなくしたい市民もいると感じた。だが、米政府に働きかける方法が分からないのだろう」と分析する。 手応えを感じたが、廃絶への道筋はまだ見えない。「伝え続ければ、少しずつ広がる。今は種をまいている」と語る。
▽「人を消耗品のように…」「教科書では学べない」
米イリノイ州シカゴのデュポール大で学ぶエマソン・ティンクラーさん(左端)
米国では「戦争終結のため原爆が必要だった」との意見が今も残る。今回の訪問先では「次世代に放射線の影響は出るのか」「長崎はどう復興したか」などと質問が出たが、被爆者の話はどう受け止められたのか。 イリノイ州シカゴのデュポール大で朝長さんの話を聞いたプア・トラスカイナさん(21)はこう話す。「原爆が何をもたらしたか学べた。教科書では知り得ないことだ」。米国で生まれ育ったロシア系移民で、原爆には元々批判的だった。ただ、きのこ雲の下で起きた詳細は知らなかった。「原爆は正当化できない」 シカゴの中学での講演を聞いた元教員ローラ・グラクマンさん(38)は多数の人の命が奪われたことについて「原爆が人を消耗品のように扱ったと知りショックを受けた生徒もいた。残虐行為がなぜ起きたのかを考え続けている」。
米イリノイ州シカゴのデュポール大の宮本ゆき教授
講演を設定したデュポール大の宮本ゆき教授は「米国の若者が遠い東アジアの人々に感情移入するのは簡単ではない。被爆者に会う経験は非常に貴重だった」と語った。 同大で原爆について多角的に学ぶ学生エマソン・ティンクラーさん(32)は「『米国にとって心地の良い物語』ではいけない。多くの視点を探したい」と受け止める。
▽「核を持たないと米国じゃない」
ドキュメンタリー映画の上映会で発言する朝長万左男さん(右端)。左端は山口雪乃さん
今年10月、キャラバンを追ったドキュメンタリー映画「ラスト・メッセージ」が東京都内で上映された。体験を語る被爆者、息をのむ聴衆、講演後に交わす笑顔―。交流の場面のほか、どう伝えるか思い悩む一行の姿も映画は捉えていた。 キャラバンに同行した被爆3世の大学生山口雪乃さん(22)も上映に立ち会った。山口さんは、訪問先で被爆者を歓迎しながらも「核を持たないと米国じゃない」というコメントがあったと明かす。異なるバックグラウンドを理解するためには何が必要だろうか。山口さんは「対話できる場所や環境を整えたい」と話す。
▽「私はモルモットではない。目をそらさないで」
ノーベル平和賞の受賞が決まった日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は、1956年の結成以降、国際会議への代表団派遣や国連本部での原爆展開催などを通じて核の非人道性を世界に訴えてきた。 1982年、米国の国連本部で被爆者代表として初めて演説したのは、代表委員だった山口仙二さん(2013年に82歳で死去)だ。顔や肩をケロイドに覆われた自らの写真を掲げ、各国代表者に核廃絶を迫った。 「命のある限り私は訴え続けます」「ノーモアウォー、ノーモアヒバクシャ」と叫ぶと、議場は拍手に包まれた。 「私はモルモットではない。目をそらさないで」。2010年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、後に代表委員となった谷口稜曄さん(2017年に88歳で死去)が、背中が赤く焼けただれた自身の写真を手に証言した。被団協の代表団の一人として国連本部を訪れていた浜中紀子さん(80)は「迫力があり、多くの人の心に届いた演説だったと思う」と振り返る。
▽命を懸けた訴え、社会を変える
非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が2017年に平和賞を受賞した際は、カナダ在住の被爆者サーロー節子(せつこ)さん(92)が授賞式で被爆者として初めてスピーチした。被団協代表委員の田中熙巳さん(92)も招かれた。 被団協主催の「原爆展」を国連本部のロビーで初めて開催したのは2005年のNPT再検討会議。証言コーナーも設け、被爆者が連日交代で体験を語った。その後も5年ごとの再検討会議の度に開催し、同じパネルの展示が国内でもある。 NGOピースボートが「おりづるプロジェクト」と名付け、2008年から続けている被爆者による証言の航海にも被団協のメンバーは参加してきた。共同代表の畠山澄子さん(35)は「当事者の声の力は大きい。命を懸けて訴える姿は人の心を動かし、社会を変えると思う」。
▽通訳として被爆者の活動見守る
米ノースカロライナ州の学校で開かれた講演会。原爆投下当時の長崎の映像が映し出された=2023年11月
最後に、1986年から米ニューヨーク市立大に勤め、カウンセリング学科所属に所属する遠山京子さんに話を聞いた。遠山さんは通訳として被爆者の活動を支えてきた。 × × 米国留学中で20代半ばだった1985年ごろ、友人に頼まれ、長崎の女性被爆者の通訳をした。被爆者の経験を初めて知り、英訳しながら涙が止まらなかった。一度聞いたのに「忘れたこと」にはできない。日米の橋渡し役を担うため、通訳を続けている。原爆やその被害を学生たちに意識してもらうことは、社会正義の実現につながる。 被爆者には社会的地位のある人もいる。だが彼らは証言の場で、必要のない肩書を言わない。被爆者というアイデンティティーでの結びつきに感銘を受けた。その姿勢を見習い、私たちボランティアも互いの肩書を意識しないようにした結果、支援に携わる際のハードルが低くなった。 被団協事務局長の木戸季市さんは証言会で中学生に「僕たちに何ができますか」と質問され、「聞いたことを両親や友達に伝えてね」と答えた。素朴な回答で驚いた。署名活動や行進だけが平和運動ではないと気付かされた。誰もが関われるし、輪を広げることができる。 学生への影響は大きい。米国による原爆投下や、旧日本軍による米軍基地への奇襲「真珠湾攻撃」を知らない子もいる。それでも被爆者の証言を聞いたら人ごとにはできない。自身が「代弁者」になることもできる。被爆者の壮絶な体験に触れ、自ら命を絶つのを思いとどまった学生もいた。 ノーベル平和賞決定はめでたいことだが、これからが勝負だ。高齢化が進む被爆者の活動の場を、さらに広げていく必要がある。証言の場をどんどんつくっていきたい。 × × とおやま・きょうこ 1958年、沖縄県生まれ、東京都育ち。専攻はカウンセリング心理学。1986年から米ニューヨーク市立大に勤め、現在はカウンセリング学科所属。