「全入化時代」の大学入試再考、文科省答申の限界

前回記事では、日本の大学が万人に開かれた「ユニバーサル段階」にあり、6割の私立大学が定員割れを起こしている現状を踏まえ、「全入化」した状態にある大学の選抜試験は今後どうなっていくのかについて考えてみた。
【画像】まるで「かけ声答申」?文科省が示した「高等教育が目指す姿」
全入化した大学とそうでない大学ではその在り方が大きく異なる。もちろん、大学入試もまったく異なるものになるだろう。つまり、これからは日本にあまたある大学をひとくくりにして語れないことを意味する。
文科省答申は残念な結果に終始した
文部科学省(以下、文科省)の中央教育審議会は2025年2月21日に『我が国の「知の総和」向上の未来像 ~高等教育システムの再構築~』といった答申を出したが、第5回の記事で批判したとおり解像度の低い議論の結果であり、「かけ声」ばかりであまり目新しさを感じない。
大学運営に大変詳しい大学職員らともこの答申について情報交換をしたが、同じ印象だった。
地方の大学関係者のみなさんなら、この答申を読めばわかるように、文科省はそんなに頼りにならない。答申の概要に「地域コーディネーター」 などの言葉が踊るが、実際にはどうなのだろうか。どのような人物をどのくらいの報酬で雇うのだろうか。
地方議会や政治家、経済界、地域で活躍する人々など多くの人たちとの調整をはじめ、本気で取り組めばかなりの重責だ。そうした人を、文科省は十分な予算の下で用意できるのだろうか。なかなか難しいだろう。
「各地域で実効性のある取組を推進するための協議体」を創設するようだが、あまたある既存の各地域の連携組織の見直しから始めて、まずそれを機能させないといけない。そのための人間関係を構築するのもひと苦労だろうに。
ならば、地方国立大学を核に、自発的、主体的に、地域の大学との連携、地域社会との協調を試みるべきだ。
今回の答申は、「文科省を頼るな」といったメッセージだと受け取ったほうが良い。地域の大学が主体的に協調する環境を整えたうえで、実効性のある地域連携の協議体ができるのであれば、そこと協調していけばいい。こうした協議体は実態があってこそ機能する。まずは文科省に頼らず、主体的に手弁当での地域における大学間での協調からだ。
「再構築」と言うのであれば、もっと踏み込んで、ひとくくりにできない大学の「機能分化」をするところまで議論してもらいたかったが、そこまでは至らず、本当に残念な結果になっている。
一方で、文科省のこうした答申と一緒に提出される関連資料やデータはとても読み応えのあるものだ。
これらをみていると、文科省が大学を取り巻く状況を俯瞰(ふかん)しており、多岐にわたる課題意識を持っていることがよくわかる。そんな資料による下地があるにもかかわらず、なぜこんなに解像度の低い議論になったのか。
「かけ声答申」になった背景
タイミングが悪かったのだろう。
少子化と人工知能(AI)を中心としたデジタルに関しては、今後の大学を取り巻く環境において、注視しないといけないものであることは言うまでもない。しかし、AIがここまで急激に進化すると、教育への影響は測りきれないし、この先、いつ、どこまで進化するのか予測が立たない。
少子化の行方はデータから推測できたとしても、どこまで進化するかわからないAIの影響を予測して議論することはできない。だから、AIに関する議論はフェードアウトしている。AIやそれを活用したEdTechが教育に及ぼす影響についての議論に物足りなさを感じることは致し方ない。
少子化ゆえに、文科省においては国家予算が付きにくく、大学教育に回りにくい状況だ。予算がふんだんに付くことを想定できるのであればもっと華々しい議論もできるだろうが、そうではないのだから、元気が出ず「かけ声」だけで終わってしまったのだろう。
今回の答申を「かけ声答申」と呼びたいくらいだ。
とは言え、大学進学率は徐々に上がっている。大学進学者の学力の幅は広がり、大学進学の目的も多様になっているのではないだろうか。
まさに大学は「ユニバーサル段階」にある。また、受験生を見ていると、受験による学習へのインパクトが弱まり、「大学教育にふさわしい準備」ができているかどうか怪しい面もある。
大学入試という側面から大学を捉えれば議論すべきことは山ほどあるし、ここから今後の大学の在り方も見えてくるのではないか。
時代の先行きが不透明なときこそ
大学を語るうえで、入学する学生の存在は教育に限らず研究においても重要なファクターである。彼らの中から研究を担う学生が生まれるからだ。研究大学においては、いかに研究者としての資質のある学生を選抜できるかは大きな問題だ。
今回の答申にまつわる議論もこうした側面からの検討が必要だったのではないか。しかし、そこには審議会としての限界がある。中央教育審議会は文部科学大臣の諮問機関である。短時間で結論を得られなければならないので、諮問の課題を絞り込み、議論が拡散しないように、不自由な議論にしかならないのだ。
ステークホルダーが多いようなテーマだとそれに合わせて委員も増えることがある。実際に中教審メンバーを新規に13名任命している。「船頭多くして船山に上る」にならなければ良いが。
こうしたところに文科省幹部の自信のなさが見え隠れする。自分たちで議論をコントロールする自信があれば少人数でも成果を出せるはずだ。このままでは、文科省職員の調整相手が多くなるため、職員の疲弊につながらなければ良いがと心配する。
そして、会議において、事務局の説明が長いとすべての委員が発言できなかったり発言は1回までに規制されたりすることもある。とても自由闊達(かったつ)な議論にはならない。
このような状況では、多岐にわたる議論は期待できず、審議会の限界を感じる。今回の答申も少なからずこうした限界があったのではないか。
時代の先行きが不透明なときこそ、なにかに偏ることなく、広く学ぶことに価値が出る。時代がどう変わろうとも、その変化に対応する力が求められるからだ。もちろんいままで以上に学ぶ必要がある。
ところが、大学は少子化による定員割れ、募集停止に臆病になっている。AIの進化とは別に、少子化の要素だけで十分に今後を占えそうなことだ。以前から何度も書いているように、どんな方式であっても大学入試での審査で「学力の三要素」を問うことが求められているが、果たしてそのあたりは十分なのだろうか。
特に、年内入試と言われる選抜時期の早い「総合型選抜」「学校推薦型」では十分に基礎学力を問うているだろうか。こうしたことも問い直すべきだったろう。
一方で、高校は大学入試とは関係なく予測不可能な社会に対応するための基礎学力を付けているだろうか。文科省は“東洋大学問題”で早期の学力試験はルール違反だとするが、ならば、いかに基礎学力を判定するのかを問われる。
高校生の探究学習・活動の評価は適切か
この後の大学側と高校側の協議に注目したいが、そもそも「大学教育にふさわしい準備とはなにか」を大学は提示できるかを問われることになるだろう。
高校では「総合的な探究の時間」が導入されて、探究学習・活動の成果発表会が行われている。そこに登場して講評をする大学教員がいるが、果たして研究ではない「探究」、つまり研究と探究の違いをどのくらい理解しているだろうか。
私は、毎年、成果発表会に呼ばれて講評することがあり、大学関係者と同席することがあるが、募集に苦しむ大学の関係者は「よく頑張りました」のような褒めることだけで終わる。探究にゴールはないのだから今後の取り組みへのフィードバックは必要だろう。
社会課題解決に取り組むものの中には、Web検索すれば出てきそうな解決策が示されることがある。自分たちでは解決できそうもない課題に取り組み、結果として「調べ学習」で終わってしまうケースも多い。大学教員としてフィードバックすることはいっぱいあるのに、それができない、資質を問いたくなる教員に出くわすことが何度かあった。
フィードバックに関する理解なしには総合型選抜で、探究学習・活動を評価することはできないだろう。
こうした「探究」という学び方を学んだ学生に大学はどのような教育をするのだろうか。高校までの学校教育における学び方と大学での学び方は異なるはずだ。だから中等教育では学習者が「生徒」であることに対して高等教育では「学生」と呼ぶことになるのだ。
少子化で人口が減るのは学力中下位層だけではない。学力上位層も同じように減る。そうしたときに東京大学をはじめとする難関大学の入学定員はいまのままでいいだろうか。彼らはビジネスでも研究でも競争のある社会に入っていくことになる。その準備は十分かを問い直す必要もあるのではないか。
難関大学でも、少子化によって定員が変わらなければ学力が下がる。教育や研究での個別の対応が求められるケースも増えるはずだ。これまで以上に、より基礎的なところから教えなければならなくなり、教育に時間がかかるようになるだろう。
いまのカリキュラムで十分だろうか。そして、いまの定員は多すぎないか。そうしたことを議論しても良かったのではないか。
このように、AIやEdTechの進化にかかわらず、いくつもの課題があるはずだ。そうした議論をしないで、高等教育の「再構築」は見えてこないのではないかと考えるのは私だけだろうか。
後藤 健夫:教育ジャーナリスト

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