天王寺動物園(大阪市天王寺区)が今年1月、開園110年を迎えた。国内で3番目に長い、戦前からの歴史を積み重ねてきた同園。少しずつその役割を変化させながら、今では動物の生息環境の保全にまで役割を広げている。目まぐるしい気候変動やグローバルな経済活動が動物の生態系を脅かす中で、動物園の存在感は増している。
「動物の幸せ」思いめぐらせ
木々に囲まれた池でカルガモが水浴びを楽しみ、上空では翼をはためかせた鳥の群れが優雅に舞う。そんな空間が天王寺動物園にはある。
「動物が幸せに暮らす場所を作る『動物福祉』の考えは今は当たり前のこと」。同園の向井猛園長(67)は現在の動物園に求められている役割をこう話す。
たしかに現代の動物園では「動物の幸せ」に着目した取り組みは珍しくなくなった。ただ、ここにたどり着くまでには紆余(うよ)曲折があった。
天王寺動物園の成り立ちは明治17(1884)年、市内中心部の府立大阪博物場に動物監が設置されたことにさかのぼる。ライオンなどが人気を博したが、鳴き声などの問題に加え、同42(1909)年に周辺で火災が発生したことで、移転が決定。府から動物を譲り受けた大阪市が大正4(1915)年、内国勧業博覧会の跡地だった天王寺公園に動物園を開園した。向井園長は当時の動物園の役割について「食べ物や行動など動物の生態を知ってもらうことだった」と話す。
開園時の詳細な記録は残っていないが、ライオンのほかゾウやオランウータンなど約60種を飼育していたとみられる。初年度に約57万人の来園を記録。昭和7(1932)年に来園したチンパンジーの「リタ」が歯を磨いたりナイフやフォークで食事をしたりする様子を披露すると、瞬く間に人気が広まり、同9年の来園者は約250万人を数えた。
戦時下の動物殺処分「静物園」と呼ばれ…
だが園のにぎわいとは逆行するように、日本はこのころから戦争に向かっていく。チンパンジーにガスマスクを着用させるなど動物が戦意発揚に使われることもあったが、戦況が厳しくなると今度は動物脱走のリスクや食糧難から動物が殺処分されるように。終戦時にはホッキョクグマやライオンなど20頭以上が姿を消し、「静物園」と呼ばれたこともあったという。
そんな動物園の復興に一役買ったのが戦後の昭和25(1950)年に来園したアジアゾウの「春子」と「ユリ子」。この2頭を見たさに、1日だけで6万人が来園したこともあった。ここから園は敷地を拡張。動物との境界を柵ではなく堀に変更し、より野生に近い環境で飼育するなど、人間と動物との関係にも気を配った。
平成7(1995)年には各動物の生息地を模した展示エリアを設ける「ZOO21計画」を始動。同年に完成した爬虫類(はちゅうるい)や両生類などの展示エリアでは、精巧な擬岩や植物などを設置し動物の生息域を再現した。向井園長は「当時としては最先端の施設だった」と振り返る。
もっとも国内不況を背景とした市の財政難もあって入園者は伸び悩み、同25年度には平成以降で最小の約116万人にとどまった。こうした事情から効率的な運営が求められ、令和3年に全国の動物園で初めてとなる地方独立行政法人へと生まれ変わった。
自然と動物園の「循環」
この年から同園は5カ年計画を策定し、従来取り組んできた動物福祉を加速させている。動物の生態に適した施設の整備だけでなく、採血や体重測定など野性環境にはない行為を何段階かに分けて訓練しながら定着させる「ハズバンダリートレーニング」も取り入れている。
自然環境に生息する動物の保全にも乗り出している。同園では個体数が減少している生物の繁殖技術の確立と生息地の環境整備を同時に行う取り組みも実施。国内に生息するニホンイシガメの繁殖を行い自然を整えたうえで自然に放流することを目指している。
向井園長は動物園の未来について「循環」という言葉を使ってこう語った。「絶滅の危機にひんする動物を自然環境と動物園で循環させながら、多様な生物を守っていくことが、これからのわれわれの役割だ」(鈴木文也)