〈 「牛を襲い続ける正体不明の“怪物”がいる」北海道で32頭の牛を殺した“謎のヒグマ”…NHK取材班が感じた“普通のヒグマ”との決定的な違い 〉から続く
66頭の牛を襲撃(死亡32・負傷32・不明2)して、神出鬼没の「忍者グマ」「牛を襲うヒグマ」とも称された「OSO18」。そんなOSO18を伝説のハンターたちとともに追い続けたのが、NHKのディレクター・有元優喜氏と山森英輔氏だ。
道東を恐怖と混乱に陥れたOSO18の正体とは、いったい何だったのか。ここでは、有元氏と山森氏の共著『 異形のヒグマ OSO18を創り出したもの 』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の2回目/ 1回目から続く )
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自分の言葉の白々しさ
人間は、謎のヒグマを捕獲できるのか。
提案を書いた時点で、番組の筋立ては明確だった。だが、それだけでは物足りない気がした。あえていえば、それは東京で消費されるための、わかりやすすぎるストーリーに思えた。北海道に暮らしているからか、物語の筋に取材を収斂させて藤本たちに集中することは、効率的すぎるように感じられたのだ。
たとえば、取材に際し、番組を作って世の中に届けたいと考える理由を、私は「野生動物による被害の深刻さを伝える」と説明していた。そう話しながら、自分の言葉に白々しさがあった。被害の深刻さを、本当にわかっているのだろうか。被害を受けた人たちの声を聞いたのだろうか。そもそも、番組のストーリーを簡単に見定めたりすることなどできないのではないか。
誰の牛がやられたのか、最初の突破口
捕獲の焦点となるヒグマの冬眠明けは、雪が消える2月中旬から3月。まだ1ヵ月の時間が残っていた。私は、有元に「計算しすぎずに、もっと現場で混乱しよう」と声をかけ、被害を受けた農家すべてを、手分けして訪ねる方針を立てた。
それには現実的な理由もあった。本当に被害の深刻さを伝えるなら、襲われ、殺された牛の有り様を、写真や映像で証拠立てることが不可欠だ。だが、57頭の被害について、被害地区や頭数は公開されていたものの、誰のどんな牛が襲われたのか、詳細は明らかにされていなかった。標茶(しべちゃ)町役場は大量の被害写真を持っていたが、見せてほしいと頼むと、宮澤からは飼い主の了承が必要だと条件を伝えられた。
誰の牛がやられたのか、すぐにわかるわけではない。突破口となったのが、被害が集中する茶安別(ちゃんべつ)に住む本多耕平だった。
本多に会ったのは、2022年の1月17日。前日、標茶の歴史について詳しく知りたいと考えて郷土史家の橋本勲に会い、OSO18について調べていると話したところ、紹介されたのだった。
13歳のときにサハリンで終戦を迎え、引き揚げの末、標茶に落ち着いた89歳の橋本は、かつて役場に勤めて農業を担当、1960年代には町で最後の開拓係長を務め、多くの家族を支援していた。橋本の紹介といって本多に連絡をすると、すぐに時間をとってくれた。
「搾乳の時間は絶対電話しちゃいけない」酪農家の取材のイロハ
ディレクターという仕事に就いて十数年が経つが、初めての地域を訪ね歩くのは、いまでも少し怖い。牧場は広く、母屋に辿りつくには、牛舎の横を通り抜けて敷地を歩かなければならない。気配に気付くと、牛たちは次々とこちらを見る。すると、穏やかなはずの乳牛でさえ、私に敵意を向けているように感じる。
それまで、被害を受けた酪農家に電話をしたときに「忙しい」とすぐに切られてしまったり、「酪農家の皆さんは、取材を嫌がっていますから」と役場から言い含められたりしていたこともあり、本多の家を訪ねるときは、少々身構えていた。だが、実際に会った本多は、笑顔の絶えない好々爺だった。
本多には、酪農家の取材のイロハから教わった。たとえば、こんな会話があった。
「酪農家の家には、電話していい時間があるんだよ」
「いつなんですか?」
「あのね、酪農家は、1日2回、搾乳をするの。まず早朝4時くらいに起きて乳を搾って、餌を補充する。それが2~3時間くらいかかって、7時半くらいに朝ご飯を食べる。そのあとは、牛舎を掃除したりして、お昼を食べて、少し横になる。だいたい15時くらいには夕方の搾乳の準備が始まる。それが終わったら、夜ご飯を食べて、すぐに寝ちゃう人も多い。だから、11時30分から14時くらいに電話するといい。一番いいのはお昼のあと、13時。搾乳の時間は絶対電話しちゃいけない」
本多のアドバイスは、その後の取材で絶大な効果を発揮した。ほとんどの酪農家が、本多のいうお昼過ぎに電話をかけると、落ち着いて話をしてくれた。かけるタイミングを理解していなかったから、すぐに電話を切られていたのだった。
本多の妻、八重子が、その朝、搾ったばかりのミルクを出してくれた。草の匂いが香り、それでいて、ほんのり甘い牛乳を飲みながら、取材は続いた。私は、本多が口にする「畑」という言葉をきいて、「野菜もつくってるんですか?」と尋ねるほど、何も知らなかった。
酪農が地域の基幹産業になるまで
「違う、違う。我々は、牧草を育てる牧草地を『畑』と呼ぶんだよ」と本多は笑った。牧草を育てる「畑」と、牛を放す「放牧地」の区別さえ、私はついていなかった。
本多の家は父の代に標茶に入り、1頭の仔牛から酪農を始めた。農閑期である冬にだけ学校に通う季節定時制高校を出てから58年、酪農家として生きてきた本多は、戦後、アメリカとの関係を深めた日本の食生活が様変わりし、日本人が牛乳を飲み、バターやチーズを日常的に食べるようになるまでの時代の移ろいを知る生き字引だった。
もともと、標茶の開拓が本格化した大正末期、本州から集団入植した人々が森を切り開いて試みたのは米や麦、豆だった。家畜として牛を飼う者はいたが、1頭、2頭のレベルで、多くは冷害に苦しみ、米作も畑作も諦めて去っていった。
最大の理由は、夏の気温が上がらないことにあった。寒流である千島海流が太平洋岸を流れる影響で、気温は夏でも20度を超える程度。積算温度が足りず、米も野菜も成長しなかった。
酪農が盛んになったのは戦後、満州や樺太など外地からの引き揚げ者や、東北を中心に本州では土地を得られなかった者たちが「戦後開拓」に入ってからだった。1954年に「酪農振興法」が施行され、2年後、北海道庁は標茶町を含む根釧地域を「集約酪農地域」に指定する。
それをきっかけに大規模な集乳施設が建設され、酪農が地域の基幹産業になっていった。北海道のなかでもとくに厳しい環境に適した唯一ともいえる産業が酪農だった。
家族経営の酪農家にとって欠かせない場所「牧野」の変化
本多は、猟友会に所属するハンターでもあった。自身の牛は被害に遭ってはいなかったが、茶安別で襲撃が起きると必ず連絡が入るため、ほぼすべての情報を把握していた。OSO18の被害が集中していた「牧野(ぼくや)」について教えてくれたのも本多だった。
「牧野」とは、春から秋にかけての放牧地を意味する。地域の酪農家たちが共同で管理し、まだミルクを出さない妊娠前の牛や、子牛などを放牧する。牛舎で世話をする手間を減らすためだ。春から秋は放牧地で草を食めば、十分に育つ。家族経営の酪農家が多い標茶で、牛の世話をする負担を少しでも減らすための知恵の賜だった。
「OSO18には、牧野の牛が襲われているんだけど、我々みたいな家族経営の酪農家にとって、牧野は欠かせない場所だったんだよ。だけど、牧野は、昔と変わってしまった」
地域で守ってきた「牧野」がヒグマの格好の餌食に
変化のきっかけは、少しずつ、だが着実に進んできた酪農の大規模化だった。本多が高校を出た1961年には、標茶で1000軒はいた酪農家は、200軒を切っていた。最初は、ほとんど横並びに、家族ごとに始めた酪農経営も、1頭の牛が出すミルクの量や、投資の成否によって次第に差が生まれた。
経営が苦しくなった農家が離農して土地を手放し、その土地を裕福な酪農家が手に入れる。経営拡大に成功した酪農家は、大規模な牛舎を建てて、そのなかで1年中、牛を飼うことが多く、放牧する農家は激減した。結果、管理が手薄な牧野が出てきたのだと本多は言った。
「昔だったら、どの牧野にもたくさん牛が入って、誰か彼かが毎日見に行ってたけど、そういうこまめな管理ができない場所が出てきてしまった。OSO18にとってみれば、いくらでも襲いたい放題だな」
本多の住む茶安別では、酪農が普及する以前、ほとんどの家が炭焼きで生計を立てていたという。炭焼きとは、ナラやブナの木を燃やして燃料となる木炭をつくる仕事で、木炭は、火鉢や囲炉裏、炬燵(こたつ)などの燃料として欠かせなかった。
だが、電気やガスが普及する1960年代に使用されなくなり、多くの家が酪農業に乗り出した。そうして細々と始まった酪農業を維持するために、地域で守ってきた「牧野」が、数十年の時を経てヒグマの格好の餌食になっていた。
提供写真の中にはとても直視できない写真も
有元と手分けして、被害にあった酪農家を特定していった。襲われた牛は57頭だったが、複数が被害にあった酪農家もいて、全部で29軒だった。そのうち取材を断られた3軒以外の26軒の方に会い、詳細を確かめ、写真の提供承諾書にサインをもらっていった。
襲われた牛に特定の傾向はない。妊娠牛もいれば、生後半年くらいの子牛もいた。全57頭のうち、乳牛は45頭で、12頭は肉牛だった。
酪農家たち自身が撮った写真や、承諾を得て役場から提供された写真は、300枚にのぼった。斃れた牛は腹を裂かれ、内臓がかきだされている。傷つけられただけの牛は、背中に爪痕だけが赤く滲んでいる。とても直視できない写真も数多くあった。
襲われた具体的な地点を特定すると、国土地理院の白地図に落とし込んでいった。大半が「牧野」で被害にあっていたが、例外もあって、伊東公徳の牛は、自宅からほど近い沢で襲われていた。父の代に福島からやってきた伊東は、30頭あまりの牛を飼う小規模経営の酪農家で、朝夕の乳搾りと餌やり以外のほとんどの時間、自宅のそばにある小さな放牧地に牛を出していた。
自宅からわずか300mほどの沢で被害牛を発見
1頭の牛が帰ってこないことに伊東が気付いたのは、2021年8月4日の夕方のことである。伊東は付近を探してみたが、日没までに見つからなかった。そこで翌朝、改めて妻と一緒に探しにいったところ、傾斜のある放牧地をおりていった沢のそばで、被害牛を発見した。すでに牛は、バラバラになっていた。
それから半年が経過しても、伊東は怯えを隠さなかった。辺りが薄暗くなる夕方以降は、放牧地へ近づこうともしなかった。無理もなかった。伊東が暮らす自宅から、沢までは300mほどしか離れていない。牛だけを襲い、人は襲わずにきたOSO18だが、急に人間に出くわすと、ほかのヒグマ同様、何をするかわからない。
初めて伊東に会った頃、沢は凍り、雪に覆われていた。伊東によれば、雪の下にはまだ前年の夏に殺された牛の死骸があるはずだという。OSO18が再来することを期待して、残したままにしていたからだった。
雪が解けると、死骸を片付けるために見に行かなければならないと言う伊東に、私は、その様子を撮影させてほしいと頼んだ。伊東は、俺もひとりでは行きたくないから、といって了承してくれた。
初めて見る、明らかな殺戮の痕跡
伊東には娘が2人いるが、すでに標茶を出て、跡継ぎはいない。ここ数年、乳価は低迷し、経営状況は芳しくない。そのさなかにOSO18による被害が起きた。姿を見せないヒグマは、伊東に、「もうやめようかなと思ってるんだ。いまなら、まだ牛も高く買ってもらえるかもしれないから」と、弱気な言葉を吐かせていた。
しばらくして、牛の死骸を見に行く日、伊東は、「沢まで行くのは、あいつに襲われてから初めてなんだ」と口にした。雪が解け始めて淡い緑が顔をのぞかせた放牧地を歩き、起伏をおりて行くと、眼下の沢のそばに、バラバラになった骨が見えた。土や落ち葉の焦げ茶に、骨の白が鮮やかに浮かんでいた。
伊東は、「骨、残ってる」とつぶやいて、白骨を見おろしながらしばし立ち尽くし、そして、こう言った。
「これだけの被害を与えているクマだから、どこかで捕まるだろうと考えていたんですけど、こうやって捕まっていないのが、本当に不思議です」
初めて見る、明らかな殺戮の痕跡に、私も呆然としていた。おそるおそる、雪解け水が流れる沢に近づくと、残っているのは骨だけではないことに気付いた。白骨のまわりには、殺された牛の毛や皮の切れ端がそのまま散らばっていた。
(有元 優喜,山森 英輔/Webオリジナル(外部転載))