戦後80年となることし、「いま伝えたい、私の戦争」と題して、いまを戦前にさせないためのメッセージを届けます。福岡市の中心部が火の海と化し、1100人以上が犠牲になった「福岡大空襲」から19日で80年です。当時8歳だった88歳の女性は、これまで子や孫にも言えなかった「本当に残酷な」街の姿を、カメラの前で語りました。
19日午後、福岡市役所で、戦争で命を落とした人たちを追悼する式典が行われました。参列者の一人、福岡市博多区の濱野ヱイ子さん(88)は、福岡大空襲の経験者です。
■濱野ヱイ子さん(88)
「絶対、戦争はしたらいけない。平和にね。平和の大事さをひしひしと。」
80年前の1945年6月19日、午後11時すぎ。福岡市の上空には、アメリカ軍のB29爆撃機が次々に襲来しました。およそ2時間にわたり投下されたのは、1500トンを超える焼夷弾(しょういだん)です。街は一夜にして焼け焦げ、死者と行方不明者は合わせて1146人に上りました。
多くの人が観劇を楽しみに訪れる「博多座」。空襲当時、ここには十五銀行の福岡支店がありました。濱野さんにとって、忘れたくても忘れられない場所です。
■濱野さん
「びっくりしました。なんであそこがって。そんなに亡くなるなんて信じられませんでした。」
木造の家屋が建ち並ぶ大通り沿いで、ひときわ目立つコンクリート造りのビルが十五銀行福岡支店です。このビルの地下は、近くに住む人たちにとって安全な避難場所のはずでした。
空襲警報が鳴り響いた80年前のあの日。当時8歳だった濱野さんと母親のトメさんは、十五銀行の地下に逃げ込む準備を始めます。
■濱野さん
「(自宅の)防空壕に入っていたんですよ、手作りの。そこに入っていたけれど、これじゃ危ないよということで(空襲が)ひどくなってきて。お位牌(いはい)取ってくるから待っときなさいと言われたけれど、腰を抜かして歩けなくなりました。」
濱野さんは母親に背負われて、十五銀行ではなく、自宅のものより少し広い、近くの別の防空壕に移り、ほかの家族と身を寄せ合いながら空襲がやむのを待ちました。
同じ頃、濵野さんが逃げ込むはずだった十五銀行の地下では、空襲による火災の影響でシャッターが壊れ、閉じ込められた63人が命を落としました。
なんとか生き延びた濱野さんですが、一夜明け、目の当たりしたのは、変わり果てた街の姿でした。
■濱野さん
「小学校に行こうと言って母と行ったんです。行く途中のことは思い出したくない。親子で、子どもが下になってお母さんが覆いかぶさっているけれど、ほかは真っ黒けで。そのまま小学校に行ったら、遺体が集められていました。」
今なお、脳裏に焼き付いて離れない悲惨な光景。濱野さんはずっと一人で抱えたまま、生きてきました。
■濱野さん
「子どもには話していない。孫にも。なるべく、つらい思いは話したくないなと思って。子どもの夢に出たらいかんよねと思ったりするから、それは自分だけでと思って。本当に残酷でしたから。」
何の罪もない市民の命をも危険にさらす空襲。アメリカ軍が日本全土へと拡大させていったのには、理由がありました。
福岡市総合図書館には、終戦から3か月後に行われた調査の音声が保管されています。調査を行ったのはアメリカ軍です。74人の市民にインタビューした音声の一部です。
■インタビュアー
「戦争中に、この戦争はとても勝つ見込みがないとお感じになったことはありましたか。」
■女性(当時38)
「焼け出されてから、こっち(敗戦)に気持ちが変わったものですから。」
■インタビュアー
「6月19日?」
■女性
「はい。6月19日以後です。」
■インタビュアー
「空襲が度重なるにつれて、恐ろしさがますます強くなりましたか。それとも慣れていきましたか。」
■男性(当時30代)
「睡眠不足かなんかになってですね。戦争は嫌。やめたらいいと思いました。」
調査記録の翻訳などにあたった福岡市の首藤卓茂さんは、空襲には日本国民から戦意をそぎ落とす効果があったと指摘します。
■福岡大空襲を研究・首藤卓茂さん(77)
「もう負け戦だと思う人はいたと思います。米軍が意図したように、戦意を低下させるというのは明らかだろうと思います。」
8歳で福岡大空襲を経験した濱野ヱイ子さんは、この日初めて、ある場所を訪れました。
■濱野ヱイ子さん
「残っている、残っている。焼けたのが。」
空襲について展示している博多小学校の「平和祈念室」です。焼けた跡が残る扉は、濱野さんが通っていた奈良屋国民学校のものです。
■濱野さん
「この写真です。同級生なんです。鎌田さんといって。」
思い出したくない記憶を呼び覚まされるようで、これまで一度も足を踏み入れることができなかった濱野さん。戦後80年のことし、自らの言葉で空襲を語る同世代が刻一刻と少なくなる現実に、向き合おうと決めました。
■濱野さん
「自分が覚えているうち、記憶がはっきりしているうちにいろいろ調べて、正確に伝えていかないといけなかった。この資料館を見たらやっぱり話して、語り継いでいかんといかんなと思います。」
子や孫の世代が、本当に残酷な街の姿を見ることがないように。濱野さんの決意です。
※FBS福岡放送めんたいワイド2025年6月19日午後5時すぎ放送