300軒から十数軒へ…消えゆくストリップ劇場 裸よりも芸術性重視で増える「スト女」

音楽に合わせ、女性ダンサーが服を脱いでいくショーを披露するストリップ劇場。多くの文化人を輩出し、昭和40年代には全国に300軒以上あったとされるが、相次ぐ摘発や風俗産業の多様化を受け、現在は全国で十数軒となっている。デジタル空間に性的コンテンツがあふれる現代にあって、強い逆風にさらされているが、生き残り策を模索。近年は「スト女」と呼ばれる女性など、新たな客層も取り込んでいる。
「舞台に置いてある額縁の中で上半身裸の女性が名画のポーズを取る。これが戦後間もない日本で人気を博しました」
大衆芸能史を研究する江戸川大の西条昇教授は、昭和22年に東京・新宿の劇場で始まった「額縁ショー」が日本のストリップの起源だったと説明する。
その後、音楽に合わせ、じらすようにして衣服を脱ぐストリップへと発展していったが、西条さんによると、時を同じくして警察の摘発も始まったという。
ストリップは東京・浅草を中心に栄え、合間にコメディアンも登場する総合的なエンタメに成長。「浅草フランス座」は渥美清やコント55号、ビートたけしを輩出したことでも有名だ。昭和40年代以降は、過激な演出を売りとする「関西ストリップ」が人気を集める一方、性風俗としての色彩が濃いストリップも増加し、摘発も相次いだ。
昭和の時代は、テレビや雑誌といったマス媒体もストリップを頻繁に扱っていたが、インターネットなどを通じて性的なコンテンツに触れられる現代では、存在感は徐々に小さくなっている。性的な目的で訪れる客は少なくなる一方、ショーの様子も変わり、新たなファンが生まれてきている。
「実は、近年は『スト女』と呼ばれる女性客が増えている。今は過激なショーというよりは、芸術性を重視した額縁ショーの時代の精神に回帰しているのかもしれない」と西条さんはみる。かつてのように、テレビなどでストリップが紹介される時代ではない。ストリップの存在自体を知らない若い世代も多い中、新規客をどう呼び込むかが、生き残りへの課題という。(木津悠介)

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