批判されても、嫌われても、前首相・石破茂が「黙らない」理由 24歳、「闇将軍」と呼ばれた政治の師の教えが原点 再登板への意欲は…

「物申す石破茂」が帰ってきた。昨年10月に約1年の首相在任を終えた直後から各種メディアに出演。縦横無尽に持論をぶつ姿は首相就任前と変わらない。共同通信のインタビューでも、高市政権の政策に「間違っている」「あっていいと思わない」と注文を付けた。自民党内には「おとなしくしていればいいのに」と眉をひそめる人もいる。退任直後の元最高権力者は、後継政権に不満があっても「黙して語らず」が永田町の見識とされているからだ。 なぜ石破は批判されても、嫌われても「黙らない」のか。「あの戦争を二度と繰り返さない」。政治家人生を貫く、このぶれない信念が背景にありそうだ。(敬称略、共同通信=渡辺学)

▽小泉元首相の言葉 石破は1月13日、高市早苗首相が1月23日召集の通常国会冒頭に衆院を解散する意向を固めたことを受け、記者団に言い切った。「解散権を持つ首相の判断だが、3年連続の国政選挙だ。何を国民に問うのか、首相は明確に述べなければならない」 首相退任以降に目立つのは、高市政権に対する厳しい発信だ。前首相の「物言い」に反響は大きく、党内外には波紋が広がった。2024年10月の石破内閣発足に当たり法相に起用された牧原秀樹元衆院議員は、X(旧ツイッター)に「昔、小泉純一郎元首相が『自分が辞めた後は何を言っても現職総理に迷惑がかかる。(略)沈黙こそ使命だ』とおっしゃっていた。石破前首相にはその言葉を送りたい」と投稿。昨年7月の参院選で落選した佐藤正久元参院議員は「コメントするだけ無駄。『丁寧な無視』で十分」と切り捨てた。
田中角栄氏(右)と石破茂氏=1983年撮影(石破茂事務所提供)
▽あの戦争に行ったやつが… 石破が発言を続ける理由を探ると、政治家としての「原点」が浮かび上がる。1981年、三井銀行(当時)の一行員だった石破は参院議員の父・二朗を亡くした。東京の葬儀で葬儀委員長を引き受けたのは「闇将軍」と呼ばれ権勢を誇っていた元首相・田中角栄。後日、お礼のため東京・目白の田中邸に足を運んだ24歳の石破に、田中はこう言い放った。 「今すぐ会葬お礼の名刺を作って、鳥取の葬儀に来てくれた3500人を1軒1軒、全部回れ。君がお父さんの遺志を継ぐんだ」 虚を突かれ「参院議員の被選挙権は30歳」「政治家にはなるな、が父の遺言だった」と精いっぱい反論する石破に、田中は目の前の机をばーんとたたき、たたみかけた。 「君は衆院選に出るんだ。いいか覚えておけ。日本の全てのことは、この目白で決まるんだ!」 田中の迫力に気おされ、政治の道に飛び込んだ石破。そんな「政治の師」の最大の教えが「あの戦争に行ったやつがこの国の中心からいなくなった時が怖い。だから、よくよく勉強してもらわねばならない」だった。 「あの戦争」とは1937年に始まった日中戦争と、1941年開戦の太平洋戦争だ。田中にも旧満州への出征経験があった。「あの戦争に行ったやつがこの国の中心からいなくなった時が怖い」。この言葉は「今も耳にこびりついている」(石破)。
1989年(平成元年)12月の衆院本会議場
▽平成とは何だったか 昨夏の参院選後、日中戦争や太平洋戦争の期間中に生まれた「戦中生まれ」の国会議員は6人のみとなった。衆院では、元首相・麻生太郎(1940年生まれ)を筆頭に、立憲民主党の小沢一郎(1942年)、議長の額賀福志郎(1944年)、自民前幹事長の森山裕(1945年4月)。参院では、いずれも自民で元議長の山崎正昭(1942年)と元農相の野村哲郎(1943年)。衆参計713人の国会議員の99%は「戦争を知らない」世代だ。 だが平成元年(1989年)の「政官要覧 平成元年前期号」(政策時報社)を繰ると、当時は戦前生まれが国会議員の大半を占めていたことが分かる。1986年衆院選で初当選を果たした1957年生まれの石破は、衆院最年少の1回生だった。 時代が平成から令和に流れる中で容赦なく世代交代は進み、田中の言う「あの戦争に行ったやつ」は政治の中枢から遠ざかった。石破は「平成という時代は何だったのか」というテーマで講演すると「世の中心から多くの戦前生まれの方がリタイアした。戦後が終わった」と総括する。戦争の記憶と体験の継承は、永田町の課題でもある。
斎藤隆夫氏
▽「反軍演説」の教訓 議会、メディアが軍部に物申さず、戦争に突入した過ちを繰り返してはならない。石破のその思いの強さは、戦後80年に当たり、首相退任直前に発表した「内閣総理大臣所感」の、いわゆる「反軍演説」の引用に色濃くにじんだ。1940年2月の帝国議会で斎藤隆夫衆院議員が日中戦争を「聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却(なおざりに)し…」と糾弾した演説だ。 当時の軍部は「聖戦の目的を冒涜するものだ」と激しく反発。小山松寿衆院議長が職権で議事録の大部分を削除した。結局、斎藤は賛成296票、反対7票で衆院を除名される。太平洋戦争前夜、当時の議会は軍部への統制を失っていた。削除された議事録は今も復元されていない。 長年、演説の議事録復活を求めている立民の長妻昭は「斎藤は決してリベラル派だったわけではない。リアリストだった」と指摘する。問題は地に足着けた批判さえ許さないという、当時の空気だろう。 石破は80年所感で「冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはならない」と訴えた。言うべきことを言わない世の中だと国は道を誤る―。石破の根底には、その危機感が強くある。
政治改革を実現する若手議員の会代表世話人の石破茂氏(右)。政治改革実現を求める署名簿を当時の宮沢首相に手渡した後、記者会見した=1993年5月
▽小選挙区制導入への警告 ところで、政権批判は野党だけの役割なのだろうか。かつての自民は、党内で権力闘争と重なる形での激論がたびたび交わされた。党の体質変化のきっかけを、1996年の衆院小選挙区制導入に求める声は根強い。 当時、強く反対していた元首相・小泉純一郎は「こんな選挙制度にしてみろ。党本部と首相官邸の言うことしか聞かない国会議員ばかりになるぞ」と小選挙区推進派の若手議員に予言していた。一つの小選挙区からの当選者が1人になれば、政党の公認を得られるかどうかが死活的に重要な問題となる。必然、公認権を持つ党執行部の力が強まり、政権の意向に意見する国会議員がいなくなるという論法だった。 石破は、自民の変容を「キジも鳴かずば打たれまい、で物を言う人が減った」と証言する。小泉の警告を直接受けていた張本人が、小選挙区導入を声高に訴えていた石破だったのは、歴史の皮肉かもしれない。
戦後80年に合わせ「内閣総理大臣所感」を発表する石破首相(当時)=2025年10月10日、首相官邸
▽普遍と不変 太平洋戦争の端緒を開いた米ハワイの真珠湾攻撃から84年目に当たる昨年12月8日。共同通信は首相退任後の石破にインタビューした。自身の政権運営や今の政治課題をひとしきり語った後に口にしたのは、やはり「あの戦争」だった。 「もし1941年12月8日に世論調査があったら、日米開戦を支持する世論は95%には届いただろう。米国との戦争はやめろ、と言うのは非国民だった」。独り言のようにつぶやくと、そのまま虚空を見つめた。 自民にいながら野党のように振る舞い、時の政権に物申してきた。高市政権への直言もこの流れに沿うものだ。一時は離党をも経験した石破は「永田町のはぐれ者」と言っていいかもしれない。よく耳にする人物評は「後ろから鉄砲を撃つ」「裏切り者」だ。 昨年12月のCS番組でこの点を問われた石破は「そういうのが嫌だからみんな黙っちゃう。そうすると、何も意見を言わない政党っていうのは一体何なのかね。『これ、おかしいよね』ということをおかしいと言わないままだと、本当に恐ろしい世の中になる」と返した。自身の内に根付く普遍的な考えが垣間見えた瞬間だった。 インタビューの最後、石破に首相再登板への意欲を問うた。「もういい。ただ『やれ』と言われた時『できません』と返すようなら、国会議員を続ける意味はない」。笑みをたたえながら答えた言い回しは、就任前と一言一句変わらなかった。

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