「ドアを開けなかったのはすごい」JAL機“奇跡の脱出”を可能にしたCAの対応とは?《379人全員生還》

1月2日、羽田空港でJAL機が海上保安庁機と衝突し、炎上するという事故が発生した。JAL機の乗客乗員379人全員が無事脱出したことが「奇跡」と讃えられたが、その背景には何があったのか。航空事故を半世紀に渡って取材するノンフィクション作家、柳田邦男氏が読み解いた。
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記憶から蘇った、半世紀以上前の「連続大事故」
年明け早々の元日に発生した能登半島地震の被害状況が気になって、その夜は明け方近くまでテレビ報道をウォッチして、翌2日も午前からテレビを見続けていた。だが、山また山の能登半島北部は、地震による山崩れや崖崩れが多発して道路が寸断され、電話回線もほとんど途絶しているため、テレビ報道は、地域の断片的な映像を繰り返し伝えているだけだった。
半世紀以上、災害や事故の問題に取り組んできた経験から、まる一日経っても被害の全容がつかめないというのは、これまでの震災とはかなり違う要素を多く含んだ災害になっているに違いないと思い始めた矢先だった。
2日18時前、突然ニュース速報が流された。「羽田空港の滑走路上で、航空機同士が衝突炎上」というのだ。能登半島地震の被害の実態もいまだ明らかになっていないというのに、全く別の大事故が身近な首都東京で起きたことに、私はショックを受け、脳内の血流が突然速まるのを感じた。と同時に、半世紀以上も前のことが悪夢のように記憶から甦った。1966年の春先だった。2月4日に北海道・千歳空港からの全日空機が羽田空港に着く直前、東京湾に墜落したのに続いて、1か月後の3月4日には、カナダ太平洋航空機が羽田空港への着陸に失敗して炎上。さらに、徹夜の現場取材を終えて一息ついた翌3月5日午後、今度は羽田を発って香港に向かったBOAC(英国海外航空)機が富士山上空で空中分解して墜落するという連続大事故に直面したのだ。その時、私は29歳。災害や事故は忘れぬうちにやってくるのが、この国の悲しい現実だ。それにしても、私個人にしてみれば、“取材現役”のうちに、大事件のほぼ同時発生に2度も直面するとは。
「ドン、ドン、ドン」と不自然な音が……
羽田空港での衝突事故は、4本ある滑走路のうち、第2ターミナルの海側に南北にのびるC滑走路34R上で起きた。17時47分頃、木更津上空から管制官の指示に従ってC滑走路を目指して進入降下していた北海道新千歳空港からの日本航空516便(エアバスA350型機)がまさに着地する瞬間、滑走路上に入り込んでいた海上保安庁の双発プロペラ機(ボンバルディアDHC-8-300型機)と衝突したのだ。
日航機は、衝突によって前車輪と主翼付け根付近の2つの主車輪に損傷が生じたに違いない、客室内にまで「ドン、ドン、ドン」という不自然な衝撃音を何度も響かせ、火炎を後方に引きながら、C滑走路上を1キロほど突っ走り、滑走路右手の草むらに突っ込んで停止。操縦のコントロールを失っていたのは確かだ。両主翼に下げたエンジン付近の火災が広がり始めた。
一方の海保機は、衝突の数秒後に爆発炎上したことが、衝突時の映像からはっきりとわかる。事故発生直後に繰り返し放映された動画だ。テレビ画面の右端で、2機が衝突した瞬間、まるでミサイルが炸裂したかのような炎のかたまりが生じて、辺り一面明るくなる。日航機はそのまま炎を引きながら滑走路上を左方向に滑走し、画面の左端に達した時、反対側の画面右端の衝突現場で、突然重油タンクが炎上したかのような爆発が起こり、大きなキノコ雲状の火煙の渦が立ち昇った。そこにあった物は何かと言えば、海保機以外の何物でもない。海保機の燃料タンクに火が入り爆発炎上したのだ。
海保機に乗り組んでいた6人のうち、ただ1人重い火傷を負いながらも脱出できた機長M氏(39)は、直後の警視庁の聴取に対し、「いきなり(機の)後ろが燃えた」と語り、また海保の羽田基地に携帯電話で、「滑走路上で機体が爆発した。自分は脱出したが、他の乗員がどうなっているかはわからない」と通報したという。右記のように、衝突から数秒後に爆発炎上した可能性が高いことから推測すると、機首のドアに近い操縦室にいた機長以外の5人は、脱出するゆとりがなかったであろう。消火活動終了後に全員死亡が確認された。
「エンジンやられてるわ」と隣りの人が
事故発生から1日、2日と経つうちに、空の安全を考えるうえで、今回の事故から学ぶべき問題点を絞り出すには、次の2つの課題を掘り下げて分析する必要があると思うようになった。
1.日航機の乗客・乗員計379人全員が1人の犠牲者も出さずに(脱出時に煙による肺の損傷など軽傷者十数人を出したが)、しかも集団パニックも起こさずに、生還できた条件は何だったのか。
2.離着陸に使用する滑走路に同時に2機以上が進入することは、絶対的に禁止されている。にもかかわらず、日本航空516便が進入降下中のC滑走路に海保機が入り込んだのは、なぜなのか。
課題1から分析を始めよう。
乗客367人、乗員12人、計379人もの人々が、炎上し始めている機体から1人の犠牲者も出さずに脱出できたことに対して、欧米はじめ世界各国のメディアが、一斉に「奇跡の脱出」という見出しで、乗員の対応と乗客の冷静さを称える報道をした。
事故発生から脱出までの機内の状況について、乗客2人の証言を記そう。
1人は、川崎市にあるS大学の哲学科教授・金子洋之氏(67)。客室前部クラスJ区画の右側10H。窓側の隣りの通路側席だ。札幌の実家で年末年始を過ごして帰京する途上だった。
〈機内のテレビをずっと見てたんですけど、着陸するまではまったく普通の状態でした。着陸した(と感じた)直後からダンという音が何回も続いて減速する感じもないので、周りの人たちも何か異常が起こったことに気づいて、パニックじゃないけど騒然となるような感じでした。「あ、なんなんだ」っていうような。
そのうちに窓からは草むらしか見えなくなったので、「あ、これはまずいな」と思いました。でも、飛行機は止まった。隣りの窓側の人が「エンジンやられてるわ」と言うので見ると、エンジンの金属がめくれてて、地面にくっついている状態でした。僕は《でもまあ、止まったから何とかなるか》と思ったんですけど、隣りの人は「いや、エンジンから火が出てる」って。僕も覗いて見ると、やっぱり火が出ていたんで、CA(キャビンアテンダント=客室乗務員)さんに、「こっちのエンジンから火が出てますよ。早く脱出しないとまずいんじゃないですか」と言いました。
CAさんは窓からエンジンの出火を確認すると、すぐに周りの乗客たちに、声をかけ始めました。
「立ち上がらないでください」
「落ち着いてください」――〉
〈エンジンから火が出始めたのを見たのは、機体が止まってから1分くらい経ってからでしょうか。はじめはエンジンの下のほうからチョロチョロ出ている感じでしたが、それがだんだん大きくなってきて、数分のうちに機内も結構暑くなってきました。
客室の後方では煙が入ってきているようで、前のほうもうっすらと煙が漂ってきました。そのうちに航空燃料の燃える匂いみたいなものが、うっすらと漂ってきました。これまで嗅いだことがないような匂いでした。
CAさんたちはかなり大きな声で連絡を取り合い、機外の火災状況を確認して脱出の手順を相互確認しているようでした。僕は他の乗客の様子が気になって、ちょっとだけ立ち上がって客室後方を見回しましたが、立ち上がったり移動したりしている人は一人もなく、皆さん落ち着いて自分の席に座っていました。
そのうちに客室の前のほうから脱出が始まった様子が感じられて、僕も前の席の人に続いて移動し、順に前方右側のシューターでスムーズに滑り降りました。
CAさんたちが乗客たちを落ち着かせる言葉かけにしても脱出指示にしても、テンション(意識レベル)を上げて叫ぶような感じで、しかもマニュアル通りにしっかりとやってくれたのは、混乱なく全員脱出をなし遂げるうえで大きかったと思います〉
「キャプテン! キャプテン!」通じない叫び
もう一人の乗客は、日刊ゲンダイ写真部長の中西直樹氏。札幌の実家に、本人と妻、3歳の長男、9か月の次男、義母、兄夫妻の計7人で帰省し、帰京するところだった。前記の金子氏とは反対の客室中央部の翼の上・左窓席隣りの28Bに座り、窓側に兄、近くに他の家族5人がまとまって席を取っていた。
〈もうすぐ着陸だなと思って窓の外を見ていたら、着陸と同時くらいにドンという衝撃があって、その瞬間、窓から見えるエンジンがバーンと爆発して炎上し、エンジンの骨組みみたいなのが見える状態になりました。
エンジンの出火を見た人は、「これ大丈夫か?」と緊張してざわつく雰囲気になったんですが、見えない席にいた人たちは、「何があったのかな」と疑問を抱く程度だったと思います。
最初にドンとなって、一瞬室内が暗くなった時には、CAさんが大きな声で、「頭を下げてください」と叫んだので、みんな座ったまま頭をかかえるようにして下げていたんですが、すぐに「大丈夫です、大丈夫です」という声かけで、みなさん落ち着き、立つ人もなく座っていました。
でも、火の手はすぐにかなり大きくなって、窓の外がオレンジ色になってからは、みんな「これはもうエンジンなり翼なりが燃えているんだな」とわかったでしょう。
僕の席のすぐ近くに主翼後方に脱出するドアがありましたが、CAさんが窓の外を見て、「こちらのドア、ダメです!」と、別のCAさんに伝えていました。別のCAさんは、マイクで「キャプテン! キャプテン!」と叫んでいましたが、マイクは通じなくなっていたようで、応答がなく、CAさん同士がそれぞれの持ち場のドアが脱出に使えるかどうかといった情報について、すべて肉声でやり取りしていました。
そのうちに前方のドアからの脱出が始まったので、「荷物は持たないでください」との指示を聞きながら、僕は3歳の長男を抱えて、前に進み、スライドを滑り降り、機体から離れたところまで逃げました。9か月の次男は義母が抱いて降りました。着地したところで、男の人が次男を受け取ってくれて、義母が立ち上がってから渡してもらいました。スライドの下では、男性の乗客たちが手伝っていました。我先にという人はいなかった。
振り返ってみると、僕らの席に近いところの(中央部の)ドアを、CAさんたちの判断で開けなかったのはすごいと思います。もし開けていたら、火が入ってきて大変な事態になっていたでしょう〉

本記事の全文は「文藝春秋」2024年3月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています(柳田邦男「 JAL乗務員 緊迫の証言 」)。
(柳田 邦男/文藝春秋 2024年3月号)

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