先の大戦終盤の昭和19年3月、日本陸軍はインド北東部インパールの攻略を目指し、「インパール作戦」を開始した。インド独立の機運を高めた一方、現地情勢と乖離(かいり)した無謀な作戦指導により戦死・病死、餓死者らは3万人に上る。上層部の机上の空論に現場の奮闘で帳尻を合わせる-。組織戦略の失敗は現代社会にも通じる教訓として語り継がれる。8日で作戦開始から80年。従軍した元陸軍曹長、佐藤哲雄氏(104)の証言を交えて改めて紐解(ひもと)く。
食料は20日分のみ
「ハゲタカの野郎、ヨロヨロ歩いているやつらだけ狙って、飛んできて体当たりするんだよ。倒れると2~3羽集まってきて、顔とか、服以外の肌が露出しているところからつついていく。あの野郎はくちばしが長いから。弾に当たるだけじゃなくて、そんな風にしてみんな死んでったんだ」
19年3月の作戦開始と同時に、佐藤氏が所属した第31師団は、ビルマ(現ミャンマー)との国境沿いに2千メートル級の山が連なるアラカン山脈を越え、インパールの北の都市、コヒマの占領を命じられた。北からの増援を阻止し、インパール攻略を支援するのが狙いだった。
佐藤氏の部隊は激戦の末、作戦開始から1カ月足らずでコヒマを占領した。敵は英国人将校が植民地下のインド人兵士たちを指揮する英印軍。日本軍の猛攻に英印軍は苦境に陥ったが、日本側は補給が続かなかった。持参した食料は20日分しかなかった。
撤退路は「白骨街道」
師団長は戦闘を継続できないと判断し、5月末に独断で撤退を開始した。飢餓に感染症、ハゲタカやトラなどの猛獣…。撤退の道中、兵士たちはバタバタと倒れた。「ハゲタカやヒョウに食い殺されるから、数日で白骨になるんだ」(佐藤氏)。実際に、日本軍の撤退路は「白骨街道」と呼ばれた。
追撃する英印軍は、まだ息のある兵士も含めてガソリンをかけ、次々に焼き殺した。
佐藤氏が「地獄を見た」という戦いの半年ほど前。18年10月、英国からのインド独立運動指導者、チャンドラ・ボースが自由インド仮政府の樹立を宣言した。ボースは首相の東条英機ら日本政府に運動への支援を再三要請した。
中国への連合国の支援ルート遮断などの目標に加え、日本陸軍は要請を受ける形でインド進攻、すなわちインパール作戦を立案した。ボースにとってはインド解放のまたとない好機であり、最高司令官を務めるインド国民軍6千人は、8万人超の日本軍と行動を共にした。
ジンギスカン作戦
だが、作戦地域は険しい山間部で、補給がままならない。日本軍は食用に牛やヤギを連れて歩いた。「私の分隊は15人で牛とヤギを5頭ずつ。『ジンギスカン作戦』と言っていたが、自分の荷物のほかに牛を引っ張っていくのは当初から無理な感じだった。家畜は住民から軍票で買い上げたんだ」(佐藤氏)
コヒマの占領を命じられた佐藤氏らは、順調に進軍した。英印軍はコヒマへの大規模な侵攻を想定しておらず、日本軍は裏をかくことに成功したとされる。
佐藤氏は敵の陣地を占領すると、宿舎を発見した。「食料があるかと思って踏み込んだけど、缶ビール大のミルク缶だけ。のどが渇いた兵士が帯剣で缶に穴をあけてグビグビ飲んでいた」
陣地は空っぽだったが、英印軍は遠くから迫撃砲で攻撃してきた。炸裂(さくれつ)した迫撃砲弾で5~6人が一度にやられた。佐藤氏も左足にその破片を受けた。「棒で思い切りたたかれた感じで痛みが走り、そのあと血が出てきて『あ~弾が当たったか』と」。佐藤氏は野戦病院に入院し、麻酔なしで手術を受けた。砲弾の破片は、膝から腿まで食い込んでいた。(大森貴弘)