「避難所のトイレはなぜ詰まったまま放置されるのか?」運営スタッフになった被災者を困惑させた“最大600人の避難生活”

長くて激しい揺れがやっと収まりかけた。外を見ると近所の家が2軒潰れていた。「津波が来る! 猶予は10分あるかなしだ」。そう直感した石川県輪島市の漁師、上浜政紀さん(60)は玄関を飛び出した。
輪島市で最大震度7を記録した能登半島地震。
石川県庁が2024年3月12日時点でまとめた被災状況によると、同市の住家被害は1万4770棟と、1月1日時点で住民登録をしていた1万1357世帯を上回る。住んでいた世帯より、壊れた住宅などの方が多いという前代未聞の酷さである。
そうした中で住民はどう動き、避難所ではどんな問題が起きたのか。上浜さんの行動から追いかけたい。上浜さんは375年前、加賀藩主に土地を拝領して定着し、輪島市にありながらも独自の文化を受け継いできた漁師集落「海士(あま)町」の前自治会長である。
午後4時6分、ガタガタと揺れが始まった
あの日、2024年1月1日。上浜さんは自宅でくつろいでいた。前年に父が亡くなり、海士町の伝統だと3年間は喪に服すことになっていた。例年なら歩いて10分ほどの妻の実家に年始の挨拶に行くのだが、それも控えていた。
海士町では還暦を迎えると戒名をもらう。上浜さんはこれに合わせてお経を習った。それ以降、読経が日課になっていて、「そろそろやるか」と思っていた時だった。
午後4時6分、ガタガタと揺れが始まった。
上浜さんはテレビが倒れないように押さえる。震源は隣の珠洲(すず)市で、最大震度は5強だったというニュース速報が流れた。
「また珠洲か」。そう思った。
奥能登では2020年12月から群発地震が発生し、特に珠洲市では2022年6月19日に震度6弱、2023年5月5日には震度6強を観測していた。
揺れが収まると、外から「変な臭い」が
上浜さんは倒れた物がないか、神棚と仏壇をチェックしてから、85歳の母親に「大丈夫か」と声を掛けた。
母親、妻、長男の4人暮らし。その時、自宅には長男を除く3人がいた。長男は市の第三セクターが経営する宿泊施設で働いていて、正月から出勤していた。
4分後の午後4時10分、また揺れが始まった。
なかなか収まらない。それどころか、だんだん酷くなって物が散乱していく。それでも必死でテレビを押さえていると、台所で夕食の準備をしていた妻の悲鳴が聞こえた。
揺れが収まると、外から「変な臭い」がした。窓を見ると住宅が2軒潰れていた。
「津波が来る」。上浜さんは直感した。
自宅は輪島の中心街を貫く河原田川のすぐそばにある。
津波は海が直接陸に上がるだけでなく、川を逆流して堤防を越える。猶予は「10分あるかないかだ」。日本海の津波は来襲が早い。輪島の漁師の常識だった。
妻が「大津波警報が出た」と言う。
もはや、ゆっくり避難している暇はなかった。
市街地で火災が発生
妻と母親は歩いて高台を目指す。上浜さんは漁に出る時の上着を羽織り、軽トラックで小学校のグラウンドを目指した。津波の緊急避難場所になっていたからだ。しかし、倒壊家屋は窓から見えた2軒どころではなく、道路をふさいで通れなくなった箇所がいくつもあった。遠回りして何とかグラウンドにたどり着くと、車を乗り捨て、歩いて高台へ急いだ。
そこには高台に住む人々の集会所があり、「屋内外を含めて400~500人いたのではないでしょうか。人がいっぱいで奥の方には行けないほどでした」と上浜さんは語る。
間もなく日が暮れた。消防のサイレンが鳴り始める。市街地で火災が起きたのだ。高台からも煙が見え、燃えているのは自宅の方だと分かった。上浜さんは山道を下りて様子を見に行く。自宅が建っている川の反対側が激しく燃えていた。
それから小学校へ戻り、避難所となった体育館へ入った。
館内には体育の授業で使うマットが20枚ほど敷いてあったが、これを除いては冷たい板張りだった。冬の一番寒い時期なのに凍えてしまいそうになる。毛布もない。
妻には「危ないから止めた方がいい」と言われたが、自宅に毛布を取りに帰った。街は家屋の倒壊と火事で酷いありさまだったが、築15年しか経っていない自宅は倒壊を免れていた。物が散乱した中から毛布を引っ張り出して、体育館へ戻る。
避難所暮らしで一番困ったこと
その夜は眠れなかった。引っ切りなしに余震が襲う。火災はどんどん燃え広がって、体育館からも真っ赤になっているのが分かった。「バーン、バーンと何かが爆発する音がずっと聞こえました」。
これ以降、体育館での避難所暮らしが始まった。
小学校には極めて多くの人が身を寄せた。上浜さんが数えたところ、グラウンドで車中泊していた人なども含めると、最大600人ほどがいた。
「体育館は足の踏み場もなく、横になったら隣の人の息が掛かるほどでした」
小学校も被害がなかったわけではない。液状化の影響か、3階建ての校舍が沈下していた。体育館の渡り廊下も余震でドーンと音を立てて落下した。
「水が一番困った」と上浜さんは言う。
救援物資はなかなか届かなかった。
「飲み水が少ないので、唇が乾燥してかさかさになります。手も顔もずーっと洗えないままでした」
約10人のスタッフで避難所を運営
唯一の救いは、小学校の一帯が停電を免れたことだった。
倒壊しなかった家から持ち寄ったコンセントが、タコ足状態につなげられ、多くの人が携帯電話を充電した。
通話も一部はつながった。最も状態が良かったのはdocomoだ。しかし、同じdocomoでも格安のahamoは通じにくかった。他の通信事業者もなかなか通じなかった。
どの通信事業者と契約していても、比較的安定して送受信できたのはLINEだった。
避難所では多くの問題が発生した。
まず、運営スタッフが不足した。市役所から派遣されたのは2人。正月で妻の実家に帰省していた自衛隊員が自主的に加わり、最初は3人で切り盛りした。
上浜さんは「物資を運ぶので、手が空いている人は来てください」という呼び掛けに応じてスタッフになった。「ボーッとしているのが嫌」だったからだ。
それでも10人ほどに増えただけだった。被災のショックでパニックになっている人もいたから、仕方がない面があったのかもしれない。だが、これで最大600人の避難所を運営したのだから、並大抵の苦労では済まなかった。
“お客さん状態”の避難者も多数
食料として届いたパンを配る時には長蛇の列になった。
「市の職員は丁寧に対応しすぎるのです。パンは全てが同じ中身ではありません。一人一人に選ばせていたら、時間が掛かって仕方ありませんでした。そこで家族の代表に来てもらい、アレルギーの人以外は、選ばずに渡していきました。渡された物が嫌だったら、もらった人同士で交換するように伝えました。同じ家族で2度並ぶ人がいたのが分かると、『もう並んでいたぞ』とわざと大きな声で言うようにしました。市の職員は苦情を言われると対応せざるを得ません。私のように物をハッキリ言うタイプの住民がどんどん進めていくことも必要なのだと実感しました」
配布をこのやり方に変えると、列は大幅に短くなった。
避難所では、お客さん状態の人も多かった。
例えばトイレ。仮設が配備されるまでは、体育館のトイレだけだった。断水していたが、プールの水をバケツに汲んで流すと、汚物は流れた。地下で下水管が破断するなどしている恐れもあったが、使っていくしかない。当初は「野糞をする人もいた」と上浜さんは語る。こうして体育館のトイレを大人数が使用しているうちに、詰まることもあった。
「出すのを我慢している人が多いので、便所に入った時に余裕がありません。詰まった上にさらにしてしまうと、どんどん詰まるのです」と上浜さんが大便器の汚れが進む構造を解説する。
そうして詰まったトイレでも、掃除をすれば流すことができた。このため、上浜さんは気づいた時に妻と2人で掃除をした。他のスタッフもしていたようだ。
「詰まっても掃除をすれば流せるのだから、自分が使った時に掃除をしてくれればいいのにと思いました。せめて、スタッフに教えてくれれば対処できます。家ではどうするのか。詰まったり、汚れたりしたら自分で掃除をするでしょう。避難所は住めなくなった家のかわりに生活する場です。自分の家と同じように考えてほしかったですね」と上浜さんは話す。
遠方の自治体から派遣されたトレーラー型トイレが好評
循環型の水洗仮設トイレが設置されると、たまった汚物の汲み取り後に水を補給しなければならなかった。水はプールにしかない。バケツに汲んで何度も往復するわけにいかず、上浜さんは自宅から漁に使う300リットル入りのタンクを二つ持ってきた。これにバケツリレーでプールからためておき、汲み取り後に補給するようにしたのである。体育館のトイレにも、このタンクから水を運んだ。
トイレに関しては、遠方の自治体から派遣されたトレーラー型トイレが好評だった。水洗トイレが4室設けられ、牽引できるようになっている。
上浜さんも使ってみたが、「すっごく気持ちよかったですよ」と、これだけは思わず笑みがこぼれる。
「水害なども含めて、毎年どこかで大きな災害が起きています。小さな自治体では財源や維持管理が難しいでしょうが、国や都道府県が一定数を導入し、災害が起きたら県のエリアにとらわれずに派遣するようにしたら、被災地でいつも困りごとになるトイレの問題が少しでも改善されるのでは」と提案する人もいた。
「避難所は自宅だ」と考えてもらうことが重要
話を体育館に戻そう。ああしろこうしろと「言うだけ」の人もいた。
「『名簿を作れ』と何度も言う人がいました。ものすごい人数が避難しているのに、10人ほどしかいないスタッフでは手が回りません。私はその人に『暇があるなら、名簿を作る係になって下さい』とお願いしましたが、無理でした。うるさく言う人に限って、口先だけで動いてくれません。スタッフは同じ被災者のボランティアなのに」と上浜さんは悲しげだ。
やはり「避難所は自宅だ」と考えてもらうことが重要なのだろう。
名簿は作るようにした。だが、「私がスタッフをしていた間には7~8割しか把握できませんでした。身を寄せた人が何百人もいるので、出入りが激しい。昼間は片づけに帰り、夜だけ来る人もいます。仕事などで輪島に残る必要があるから身を寄せている人もいました。グラウンドでの車中泊も多い。ずっと館内にいる人ばかりではなく、つかみ切れないのです」
こうして混乱は続いた。
〈 「縁も所縁もない人が一生懸命働いてくれた」能登半島地震で地元のために汗を流した“TVには映らなかったボランティアグループ” 〉へ続く
(葉上 太郎)

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