今から40年前の昭和59年3月18日、一連のグリコ・森永事件の発端となる江崎グリコ社長誘拐事件が起きた。食品会社に次々と脅迫文を出し、現金を要求。実際に青酸入りの菓子を店頭に置くなど、一般消費者を「人質」に取る空前の手口だった。メディアにも挑戦状を送って警察をあざ笑い、広域捜査の隙をつき闇に消えた。「今でも捕まえる夢を見る」。当時の捜査員の脳裏から、一味とされる「キツネ目の男」の残像が消えることはない。
「西宮署管内で強盗事件発生」。59年3月18日午後9時過ぎ、兵庫県警捜査1課次席だった開発徹也さん(91)はそんな一報を受けた。現場は当時の江崎グリコ社長、江崎勝久氏(82)の兵庫県西宮市の自宅。その後、強盗ではなく、社長が拉致されていることが明らかになる。
押し入った実行犯は2人組。「金ならなんぼでもやる」という社長の妻の申し出を、「金は要らん」と断った。
身代金目的ではない? ヤクザが絡む企業恐喝か-。犯人側の狙いが読めず、態勢配備に迷いが出た。この間に犯人グループは大阪府内へ。「犯人は警察よりも一歩前に進んでいた。こちらは広域の組織捜査が徹底できなかった」(開発さん)
犯人側はグリコに現金10億円などを要求。だが3日後、社長は監禁されていた水防倉庫から自力で脱出した。
《グリコの せい品に せいさんソーダ いれた》《グリコをたべて はか場え いこう/かい人21面相》
59年5月、犯人グループは当時のサンケイ新聞などマスコミ各社に挑戦状を送付。日本中が事件の成り行きに固唾をのむ「劇場型犯罪」の始まりだった。
関西弁で警察の捜査を《ぜい金 むだづかい》と揶揄(やゆ)。卑劣な犯行にもかかわらず、小気味よい文体が大衆に受け、まるで「反権力」のアンチヒーローのような犯人像の美化・誇大視につながった。報道は過熱し、警察の一挙一動を伝えるメディアと当局との間にかつてない軋轢(あつれき)を生じた。
「今さら何を言うてもあかん。勝ち負けでいうと、完全に警察の負け」
グリコ・森永事件の捜査で現場指揮をとった元大阪府警捜査1課特殊班班長、鷹取裕文さん(85)は悔恨をにじませた。
姿を消した「キツネ目」
事件を巡っては、後に似顔絵が公開され、犯人グループの一味と位置付けられたのが「キツネ目の男」だった。
昭和59年6月、犯人側は丸大食品を恐喝。指示通り現金受け渡しのため当時の国鉄(現JR)高槻駅(大阪府高槻市)から京都駅へ向かう電車内で、捜査員らは不審な挙動を見せるキツネ目の男と初めて対面した。
犯人グループと関係がある-。当時電車内に乗り込んでいた捜査員は確信に近い感覚を持ったという。明確な犯罪の嫌疑はなくても、職務質問すべき不審事由はありそうだった。
だが当時の上層部の捜査方針は「一網打尽」、すなわち犯人グループ全員の現行犯逮捕。一人だけを捉えるという発想はなかった。結果キツネ目の男は、職務質問を受けることなく姿を消した。
当時、大阪府警捜査1課特殊班の班長として現場捜査の指揮をとった鷹取裕文さん(85)は職務質問の是非は語らず、ただ無念さだけを口にした。「悔しい気持ちのまま死んでいった仲間たちもいる。やりきれない思いだ」
「生きて帰れないかも」
犯人に最も肉薄した日とされるのが59年11月のハウス食品恐喝事件。鷹取さんと同じ特殊班の捜査員だった男性(68)は当時の緊張感を今も覚えている。
任務は現金の運び役となり、指定された受け渡し場所で犯人を確保すること。「生きて帰れんかもしれん」。そう言われ、自分の机を片付けてから現場に向かった。
当日、薄暗い車の中で待機し、握り続けた車のドアレバーは汗でびっしょりぬれていた。犯人側と接触できず、引き返すことになったとき、一瞬の安堵(あんど)を感じたが、それより悔しさが勝った。「解決せなあかん事件やった」
脅迫状や手紙、電話を駆使し、現金を持参する行き先を次々と指定する。警察に先回りさせない手法は、携帯電話や監視カメラが普及していない当時、捜査を大きく攪乱(かくらん)した。ハウス事件でも府警は事前の予想とは違う滋賀方面へ現金を運ぶよう指示され、裏をかかれた形になった。
滋賀県警には当時、捜査を主導する大阪府警から「高速道路には近づくな」という指示が出されていたという。ハウス事件の舞台となったことは県警のほんの一握りの幹部らにしか知らされていなかった。
この間、名神高速大津サービスエリアでは再びキツネ目の男が目撃されたが、またしても男は闇夜に姿をくらませた。
ハウス事件の事情を知らなかった滋賀県警のパトカーは不審車両として犯人グループの車をたまたま発見したが、逃走された。「犯人取り逃し」と県警は猛烈な批判を浴び、翌年、当時の県警本部長が衝撃的な焼身自殺を遂げた。
「まじめな人だった。事件の犠牲者といえる」
後に県警捜査1課長や刑事部長を歴任し、グリコ・森永事件の遺留品捜査にも当たった阿部興平さん(84)はそう振り返り、「取り逃し」批判は当たらないと反論する。大阪府警がメインの広域捜査は組織のメンツやセクショナリズムの壁に阻まれ、十分な情報共有はなされなかった。「警察がオールジャパンになれなかった」。それこそが問題の本質だと阿部さんは強調する。
脅迫音声の子供たちは今…
事件では脅迫相手の企業に電話で受け渡しの指示を与える際、子供の音声が用いられることがあった。犯人グループの一連の手口の中でも「最も衝撃的だった」という元捜査員は少なくない。
使われた子供の音声は複数に上る。犯人の身内なのか、無関係の子供に頼んだのか。当時兵庫県警捜査1課次席だった開発徹也さん(91)は「(音声の)子供たちは今、どう成長しているのだろう」と思わずにいられないという。
60年8月、犯人グループは《くいもんの 会社 いびるの もお やめや》と脅迫状で事件終結を宣言。その後動きはなく平成12年に一連の事件の時効が成立し、わが国の犯罪史に残る空前の事件は未解決で幕を閉じた。
(中井芳野、鈴木文也、鈴木源也)