「遺書を書こうと思ったぐらい落ち込みました」日帰りハイキング→遭難4日目に20代女性が“絶望”を感じた意外な“ある出来事”

〈 低山で遭難した20代女性が“最も恐怖を感じた”瞬間 同行の男性が「あそこに人がいる」「あっちに道路がある」と走り出し… 〉から続く
壮大な山の自然を感じられる登山やキャンプがブームになって久しい。しかし山では、「まさかこんなことが起こるなんて」といった予想だにしないアクシデントが起こることもあるのだ。遭難者の「生死」を分けるものは一体何なのか。
山で遭難し、生死の境をさまよった後に生還した登山者に羽根田治氏が取材した著書『 ドキュメント生還 』(ヤマケイ文庫)より、丹沢・大山(おおやま)で起きた遭難事例「低山で道迷いの4日間」を紹介する。(全2回の2回目/ 前編から続く )
◆ ◆ ◆
無情に通りすぎるヘリコプター
4日目の18日の朝、昼夜を問わず焚き火を絶やさないようにしていたため、周囲に薪がなくなってきた。そこで50メートルほど上に移動し、再び焚き火を起こした。ビバーク中、天気はずっとよく、昼間は暖かいくらいだったが、連日午後3時を過ぎるころから急に寒くなってきて、夜中から朝方にかけてはそうとう冷え込んだ。
この日も朝からヘリの音が聞こえてきていたので、湿った木や草をくべて煙を出していたが、気付いてもらえなかった。移動した場所からさらに30メートルほど上に行くと開けた場所があり、ヘリが接近してくるとそこへ駆け上がって合図を送ったが、やはりダメだった。
のちに早苗が救助されてヘリに乗せられ、上空から自分たちが彷徨(さまよ)っていた山を見たとき、樹林帯のなかにいる人間を捜し出すのが至難の業であることを思い知らされた。たとえ煙を出して合図したとしても、もやに紛れてしまうとまったくわからないという話を聞いたのは、救助されたあとだ。
発見してもらえないことに落胆し、それでも「また来てくれるだろう」と気を取り直していると、果たして昼前に再びヘリが飛んできた。早苗は「今度こそ」と思って開けた場所まで走っていき、懸命に合図を送ったが、無情にもヘリは通りすぎていった。
「今まででいちばん近いところまで来たのに気付いてもらえず、すごくショックでした。遺書を書こうと思ったぐらい落ち込みました」
このときに早苗らを支えたのが、家で帰りを待っている父親と弟の存在だった。もし4人が帰ってこなかったら、父親と弟はこれからどんな人生を送ることになるのだろうかと考えると、「諦めないで、どんなことがあっても帰ろう」という気持ちになれた。
待つべきか、行動したほうがいいか
しかし、助かるためには待つべきなのか、行動したほうがいいのか、その判断がつかなかった。が、最終的に4人は行動することを選んだ。
このままでは発見されずに捜索が打ち切られてしまうかもしれない。だったらやれることをやったほうがいい。まだ歩ける体力があるのだから、沢を下りていこう。時間がかかっても、下りていけばどこかに着くだろう――という判断だった。「動けない」と言って反対した祖父は、「ここにいてもしょうがない。いざとなったら私がおぶるから」と早苗が説得した。実際に歩き出してみると、なんとか歩くことはできた。母親が肩を貸そうとすると、「大丈夫だ」と手を払いのけるぐらいの元気があった。
歩きはじめて約30分後、4人のすぐ真上にヘリが飛んできたが、今回もまた通りすぎていってしまった。ヘリが来ては行ってしまうたびに絶望するのはもうたくさんだった。
「これからはヘリをあてにせず、自分の力で下りよう」
そう思うことにした。
またしてもヘリが近づいてきた
それから15分ほどして、またしてもヘリが近づいてきた。機内にいる救助隊員の様子がわかるくらいの至近距離、ローターに木の枝が絡まりそうなぐらいの超低空飛行だった。そのときに妹が持っていた手拭いを振り回し、早苗と母親が斜面を駆け上がって合図を送った。ヘリは4人がいる場所を通り過ぎそうになったところで旋回し、またもどってきた。ようやく発見してもらえたのだった。あとで聞いた話によると、妹が振り回した手拭いが救助隊員の視界にちらっと入り、よく見てみると早苗と母親が斜面を登って合図しているのが見えたとのことだった。
早苗と母親は「助かった」と号泣しながら抱き合った。なかなか発見してもらえず、助けられることが想像できなくなっていたので、ほんとうに助かったことが信じられなかったのだ。妹も泣いていた。ヘリから救助隊員が下りてきたときには、祖父も「よかった、よかった」と言って泣いた。
4人はふたりずつ2回に分けて山麓に搬送され、ただちに入院の措置がとられた。幸いだれにもケガはなく、1、2日で退院することができた。
遭難の原因は何だったのか
4人が救出された場所は、下山予定とはまったく方向が違う、唐沢川と大ノ沢の出合付近だった。どこで道を間違えたのかははっきりしないが、途中で撮影した写真や救出場所から推測するに、唐沢峠から唐沢川のほうへ下りていってしまったものと思われる。
2万5000分の1地形図や一部のガイドブックには、唐沢峠から唐沢川沿いにコースが印されている。「下っていく途中に標識や手すりがあった」という遭難者の証言もあったが、かつては登山コースになっていたところが、現在は利用する人が少なく荒れてしまっているのだろう。
彼らがもし唐沢峠で道を間違えたのだとしたら、本来下りるべき雷ノ峰尾根の分岐を素通りしてしまっているわけである。注意力が散漫になっていて、うっかり見過ごしてしまった可能性は高い。
ちなみに祖父が持っていた地図は地形図でも登山地図でもなく、パンフレットかなにかの概略図だったという。彼はコンパスも高度計も携行していたそうだが、これらは地形図と併用してこそ初めて威力を発揮するものである。地形図がなければ、持っている意味はあまりない。
道迷いに陥るときの典型的な心理パターン
三叉路の分岐から下っていくとき、途中から沢沿いを行くようになり、道が徐々に不明瞭になっていったにもかかわらず、4人はそのまま下り続けてしまった。そのときの心境について、早苗は次のように述べている。
「道を間違えたことには途中から薄々感づいていたけど、それを認めたくなかったんだと思います。心理的にも体力的にも疲れてきていて、引き返すのがいちばんだとわかっているのに、そうしたくない気持ちのほうが強く、おじいちゃんがいう楽なほうの提案に従ってしまいました。『またこの道をもどるのか』と思うよりも、『このまま下っていけば絶対着くんだ』と信じたい気持ちになっていました」
言うまでもなく、これは道迷いに陥るときの典型的な心理パターンである。山登りの経験がほとんどない3人の女性がそう思ってしまうのは、ある意味、仕方のないことかもしれない。腑に落ちないのは、リーダーである経験豊富なはずの祖父の判断だ。
中高年登山者のプライド
直接話を聞けなかったため推測の域を出ないが、あるいは彼もまた道を間違えたことに途中から気付いていたのではないかと思う。そのことを日没間近になるまで認めず、また2日目にほかの3人が「引き返そう」と言ったときに頑なまでに反対したのは、プライドを傷つけられ、面子がつぶされると感じたからだろう。
こうした心情は、とくに“ベテラン”を自負する登山歴の長い中高年登山者に散見されるものだが、場合によってはベテランゆえのプライドや面子が判断を間違った方向に導いてしまうこともある。「パーティのリーダーがベテランだから」と過信してすべてを任せきりにするのではなく、メンバーのひとりひとりがしっかり計画を把握し、もし山行中に「おかしい」と思ったことがあったら、それをはっきり指摘することだ。
初心者を率いて山に行く機会の多いリーダーや、“連れられ登山”にどっぷり浸ってしまっている登山者が、この事例から得られる教訓は少なくない。
最後になったが、早苗たちにとっても、この遭難はただ辛かっただけの体験にはならなかったようだ。
「みんなで救助を待っているときに、なにが大事なのかわかったわねえという話をしたんです。ふつうになにげなく生活していることが、ほんとうにどれだけ幸せで大切なことなのか、この遭難事故を通して考えさせられました」
(本稿は「山と溪谷」2007年2月号に掲載した記事に加筆訂正したもので、『ドキュメント生還』の文庫化に当たって新たに収録しました)
(羽根田 治)

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