前編では「史上最悪の作戦」を主導した牟田口廉也中将の第15軍司令部が遊興に使った料亭と、そのお膝元メイミョウの異質な雰囲気について触れた。では、その上級部隊であるビルマ方面軍とそのお膝元であるラングーンはどうだったのか。
メイミョウと同じようにラングーンにも料亭が著名な料亭が存在した。それが翠香園だ。もとは第18師団のお膝元である久留米にあった料理屋で、杉山元元帥陸軍大将と懇意であったことが伝わっている。ラングーンにおけるその偉容、繁盛ぶりを読売新聞の若林正夫記者は次のように伝えている。
〈 それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢百五十名になんなんとする大部隊で、芸妓、雛妓はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立屋に洗張屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンにご到着となった。(中略)
灯よもしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹蔭から粋な音じめがもれて来るという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付からはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた。 S奴姐さんはX参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や、民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。
出展:若林正夫「ラングーンに傲るもの」『秘録大東亜戦史(ビルマ篇)』富士書苑〉
「軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヶ月遊べたのに」
ここまで豪華な料亭を外地で経営する以上、それにかかる経費は莫大で利用客である軍人が支払う料金も相当なはずだ。
同じ疑問を戦後口にしたのがビルマ方面軍の後方参謀だった後勝(うしろまさる)だ。彼は同席者から聞かされた話に唖然とする。
〈 戦後ある会合で、「戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い翠香園が、連日繁昌していたのは理解できなかった」と言ったところ、「ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヶ月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない」と笑われて、まったく二の句がつげなかった。
出典:後勝『ビルマ戦記』潮書房光人新社〉
メイミョウの清明荘と同じく、料亭遊びの原資は元を辿れば公金、それも横領した物資の横流しであった。この後勝はビルマ方面軍司令部による翠香園への贔屓に度々悩まされており、更には軍事行動まで邪魔されている。
繁盛したラングーンの翠香園も終わりを迎える。1945年4月にはラングーン近郊にイギリス軍部隊が迫ったからだ。恐慌状態に陥った木村兵太郎ビルマ方面軍司令官は、方面軍より上位の南方軍に無断でラングーンから空路脱出する。方面軍司令部ごとの敵前逃亡だった。
この方面軍司令部の逃亡は、後勝にとっても寝耳に水だった。後はラングーンからモールメンへの軍需物資の輸送船を手配していたが、物資がラングーンに置き去りにされた事を後に知る。
その理由を聞いたところ、緊急軍需品を港に集め、いよいよ舟に積み込もうとしたとき、作戦課長命で舟を全部取り揚げられ、軍需品は放置したまま、方面軍司令部はモールメンへ撤退することになったというのである。
〈 それでは、後方で集めた舟は何に使ったかと聞けば、作戦課長直轄の特殊部隊を乗せて撤退したという返事で、私がカレニン山系の山越えのとき、恥ずかしい思いで聞いた風聞の通りであった。
出典: 後勝『ビルマ戦記』潮書房光人新社〉
「芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした」
「作戦課長直轄の特殊部隊」と聞いても意味が分からないだろう。後はボカして書いているが、1953年に出版された初版ではハッキリと書かれている。
〈 幾千の邦人は急に小銃を持たされてラングーンに残留され、また六百屯の緊急軍需品は一物も運び出すことなく、準備した舟艇には、偕行社に働いていた数十名の女子軍属、翠香園その他にいた百名近い慰安婦、偕行社の雑品等を乗せて、モールメンに遁走してしまつたではないか。
出典:後勝『ビルマ戦記』日本出版協同(初版)〉
物資よりも慰安婦の輸送が優先されたのだ。戦闘に関係ない婦女子を優先して退避させたと弁護することも可能かもしれない。しかし、逃れる事のできた婦女子には明確に序列があった。「芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした」と読売新聞の斎藤申二記者は書いている(『秘録大東亜戦史 第3 改訂縮刷決定版』富士書苑)。
兵や下士官向けの慰安所にいた慰安婦たちは置き去りにされていたのだ。司令部に近しい慰安婦を軍需品より優先して逃がしたとなれば、ビルマ方面軍は戦争よりも愛人を優先したと言われても仕方あるまい。
上記の引用からも分かるように、後勝の『ビルマ戦記』は初版と新版で内容が異なっている。1953年に出版された初版では戦争から時間が経ってないせいか怒りも大きかったのか、特に物資輸送の件で告発的内容になっているのに対し、新版では記述がボカされている。軍時代からの人間関係など、様々な事情がそうさせたと思われるが、これに対して告発の価値が薄れたとする批判も存在した。
しかし、後はただでは転ばないタイプの人間だったようだ。初版では具体的な醜聞が描かれているのに対し、後の版では醜聞はボカされているが責任者について記述してある。両者を合わせて読むと全体像がわかる構造になっている。後の怒りは相当のものだったようだ。
方面軍司令部が逃げ出した後、ラングーンに置き去りにされた軍人の中に、更なる方面軍の恥部を目撃した人物がいる。ラングーンの高射砲部隊にいた小宮徳次少尉は、方面軍司令部が逃げ出した後、戦闘用物資調達のために貨物廠に出向いたところ、最高級品の日本酒やビルマで最も良質とされた英国煙草のマスコットが山積みにされていたのを目撃している。
この少し前、ラングーンの兵士に恩賜の煙草が大量に支給されていた。煙草としての価値はマスコットに遥かに劣るが、それでもこれまでほとんど支給されなかったのに突然の大盤振る舞いに兵士は訝しんだが、後に方面軍司令部が逃げ出したことを知って事情を察した。
菊の御紋が入った恩賜の煙草を投棄するわけにいかないため、ラングーン脱出にあたり貨物廠の在庫を置き去りにした部隊に放出した。多くの兵士達はそう察した。しかし、より価値の高いマスコットや日本酒は隠したままであった。この行為に対し、残留部隊はかえって不信感を軍首脳に抱くようになったと小宮少尉は書き残している(小宮徳次『ビルマ戦 : 戦争と人間の記録 前篇』現代史出版会)。
「これでは日本は負ける。兵隊は死ぬことができぬ」
前後編と通じて、ビルマ方面軍の料亭・慰安婦を巡る醜聞について記述した。牟田口中将の遊興話はよく知られているが、その上級部隊であるビルマ方面軍も相当の腐敗が蔓延っていたとみられる。だが、数々の腐敗は多かれ少なかれ、日本軍の他の部隊にも存在している。なぜビルマ方面軍麾下の部隊に限って、これほど不正が後世に伝わっているのか。
インパール作戦中止後、他の戦線からビルマに回された部隊が多数ある。その一つ、野戦重砲兵第5連隊の下級将校の証言が伝わっている。
〈 昭和十九年(引用者注:1944年)十月、野重五連隊がタンビザヤのゴム林に舎営していたとき、第二大隊本部の通信係将校・氏家官少尉(熊本県出身)が、業務連絡のためメイミョーの第十五軍司令部に出張した。出張から帰ってきた彼は、その目で見てきた司令部上級将校の夜の乱行ぶりを語り、「これでは日本は負ける。兵隊は死ぬことができぬ」と嘆き憤っていた。下士官出身であった氏家少尉は、イラワジの戦線で戦死した。私はあのときの氏家少尉の、涙をうかべた憤りと悲しみの眼を思い出す。
出展:浜田芳久『ビルマ敗戦記』図書出版社〉
前編での辻参謀と同じく、外部からやってきた軍人にとって、ビルマでの乱行ぶりは目に余ったようだ。下級将校に「日本は負ける」とまで言わせた司令部の乱行ぶり。一体、彼は何を見たのだろうか。
(石動 竜仁)