太平洋戦争末期の1945年3月27日、沖縄県の渡嘉敷島(渡嘉敷村)に米軍が上陸した。渡嘉敷島は沖縄戦で最初に戦火に巻き込まれた慶良間諸島の一つ。逃げ場のない島でパニック状態に陥った住民は「集団自決」に追い込まれた。くわを振り上げ、妻や子を手にかける男たち。当時11歳の少女だった大城静子さん(91)は目の前で息絶えた母の横で、死んだふりをして生き延びた。首の付け根にはその時に付いた傷跡が今も残る。「血みどろで、まるで地獄絵図のようだった。戦争は嫌だ」。現在暮らしている沖縄県糸満市の一軒家で、79年前の惨劇を証言した。(共同通信=宮崎功葉)
▽小さな島の豊かな生活
沖縄本島南部の那覇市から西に約30キロの渡嘉敷島。大城さんは島南部の阿波連集落で生まれた。父、母、祖父、祖母、きょうだい6人の計10人家族で、半農半漁の豊かな生活だった。 周囲25キロほどの小さな島では集落の人たちの誰もが知り合いで、助け合いながら暮らしていた。旧日本軍は戦前から島に配置されており、大城さんの家は6、7人の日本兵に部屋を貸していたが、平穏な日々だった。
▽助けてくれるはずの日本兵から、手りゅう弾を渡された
渡嘉敷島での集団自決を生き抜いた大城静子さん=6月、沖縄県糸満市
のどかな島の空気が一変したのは45年3月27日。大城さんの家族は米軍が上陸したことを聞き、北部の北山と呼ばれる日本軍の陣地に避難することになった。防衛隊の任務で不在だった父を除く家族9人で午後9時ごろ、家を出た。 このとき、集落の約半数は残る決断をしたという。そしてその人たちは、集団自決に追い込まれなかった。大城さんは振り返る。「今思えば、この時の決断が生きるか死ぬかの分かれ道だった」。道中で腹を壊して別行動を取った祖父も助かった。 大城さんらは米軍に見つかることを避けるため、道ではなく山を流れる川の中を歩いた。「兵隊さんのとこまで行けば助かるさ」。不安に押しつぶされそうになりながらも、家族どうしで声をかけ合った。 3時間ほどで北山に着いた。しかし、日本兵は「ここは軍の陣地だから入れられない」と陣地の裏側の山を登るよう住民に促した。そして「米兵は女を強姦し、男も首を切って捨てる。その前に自分らでやれ」と言うと、逃げてきた住民に手りゅう弾を手渡した。
▽集団自決
山中の集団自決が行われたとされる場所=3月、沖縄県渡嘉敷島
28日の明け方、木々の生い茂る山中の広場に100人ほどが集まった。日本兵もいた。手りゅう弾は5発。大人が円陣を組み、その中に子どもたちを入れて逃げられないようにした。そして覚悟を決めて信管を抜いたものの、爆発しなかった。 すると、大人たちは火薬を食べて死のうと言いだした。弾のふたを開けると、中はチョコレートのような見た目をした青色の火薬が詰まっていた。母が「食べて」と言って口に入れてきたが、甘くない。まずくて、すぐに吐き出した。
集団自決が行われた山中に立つ慰霊碑=3月、沖縄県・渡嘉敷島
火薬を飲んでも死ねなかった男たちは短剣やくわで家族らを手にかけ始めた。あちこちで悲鳴が飛び交った。「姉ちゃん怖い」と弟は泣き、大城さんの足にしがみついた。親戚のおじさんは木を折った棒を手にし、母を殴った。母は何度か殴られて息絶えた。大城さんも首を殴られて倒れたが、気を失ったふりをした。その時、祖母が頭を優しくなで、着物をかぶせてくれた。「おばあは私が死んだと思ったのだと思う」
▽「血の水を飲ませたから・・・」
逃避行を共にしていた大城さんの妹、喜久村清子さん(86)は当時6歳。惨劇に巻き込まれまいと、その場から転げるようにして逃げた。すぐ近くに、阿波連集落に住む顔なじみの女性がいた。その女性は日本兵に腹を切られ、腸が飛び出ていた。両手で傷口をふさぐ女性の夫から「手が離せないから、きよちゃん、水をくんできて」と頼まれた。
喜久村清子さん
広場のすぐ下を流れていた小川の水は自決した人たちの血で赤く染まっていた。血混じりの水を空き缶にくみ、女性の元に戻った。「血が混じっているけど大丈夫かな」。女性の夫に伝えると、「ありがとう。飲ませてあげて」と言われた。手を震わせながら缶を口に運んだものの、女性は一口飲んであえなく息を引き取った。喜久村さんは死ぬのが怖くなって山を下り、海岸で米兵に捕まった。 喜久村さんは当時を振り返り「血の水を飲ませたから死んでしまったと思い、戦後も20年以上にわたり自分を責め続けた。つらい記憶がよみがえるから、今も腸を使う料理が食べられない」と話す。
▽米軍に救助されて見た光景
大城静子さん=6月、沖縄県糸満市
棒で殴られ瀕死の状態だった大城さんは後に米軍に救助された。先に山を下り捕まっていた別の妹が「おねえは生きているから助けて」とヤマシタさんという名の通訳役の米兵を連れて戻ってきた。 大城さんはヤマシタさんの手を借りて起き上がった。着ていた服は血まみれ。辺りには無数の遺体が転がっていた。木に首をつっている人もいた。母の胸の上には息絶えた生後6カ月ほどの妹が横たわっていた。 その後、生き延びた喜久村さんらきょうだいと共に渡嘉敷島の北西にある座間味島の米軍のキャンプに収容されて治療を受けた。首を殴られたためか喉が腫れ、水を飲むと鼻から出てしまい、食事も取ることができなかった。
▽終戦後は母親代わりに
大城さんと喜久村さんは終戦後、はぐれていた祖父や防衛隊から戻ってきた父と再会できた。しかし、父は12月30日に爆薬を使った漁の事故で亡くなった。 それからは大城さんが祖父の畑作業を手伝いながら、母の代わりにきょうだいの面倒を見てきた。中学に進学したい気持ちもあったという大城さん。「親のいる他の家がうらやましかった。お金もなく貧しい生活だった。子どもだけ残した親を何度も恨んだ」 きょうだいら全員を中学まで卒業させた後、24歳で結婚し沖縄本島の糸満市に移住した。1972年の日本復帰まで那覇市の米軍基地で洗濯などをして働いてきた。子どもや孫、ひ孫にも恵まれた。喜久村さんも仕事を機に本島に移った。「自分を犠牲にして育ててくれたおねえには頭が上がらない」との思いから、現在は週に2回ほど糸満市の大城さんの自宅に土産を持って訪ねているという。「妹たちを守ると必死で、なんとか生きてきたね」大城さんはそう語り、自宅を訪れた喜久村さんの背を優しくさすった。
▽79年たってもよみがえる記憶
「平和の礎」に触れる大城さん(右)と喜久村さん=6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園
大城さんは毎年3月が近づくと、嫌でも自決の記憶がよみがえり、体調が悪くなったり、眠れなくなったりする。「皆、犬死にだった」。自決を促した日本軍への怒りが今もこみ上げてくるという。「日本軍は捕虜になれば拷問されると住民を脅し、たくさんの命を奪った。絶対に許せない」。村などによると、島の人口は1940年の統計で約1370人。当時集団自決したとされる住民は約330人に上った。
▽孫の決意とおばあの願い
慰霊祭に孫の侑生さん(右)と参列した大城静子さん=3月、沖縄県・渡嘉敷島
母や妹を失った日から79年の今年3月28日、大城さんは渡嘉敷島で営まれた慰霊祭に、沖縄戦に関心を持つ孫娘の侑生さん(12)に腕を支えられながら参列した。碑に刻まれた母たちの名前を指でなぞり、涙を流した。
慰霊祭で手を合わせる大城静子さん=3月、沖縄県・渡嘉敷島
侑生さんは当時の自分とほぼ同い年の12歳だ。大城さんは語気を強めた。「かわいい子や孫を手にかけることが平気な親はいなかったと思う。それでも正しい判断ができなくなるのが戦争だ」 侑生さんは言う。「沖縄戦がおばあの心に一生消えない傷をつけた。私は戦争を知らない世代だけど、おばあの涙と平和の大切さを忘れない」。その手をなでた大城さんはこう願う。「この子たちに、あんな悲惨な経験をさせたくない」