やはり鎌足の墓だった? 出土冠に「大織冠」の特徴 阿武山古墳

1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。復元した大織冠の画像などは11月2日に帝塚山大である公開講座で初公開される。
研究は同大の牟田口章人客員教授(文化財アーカイブ)が実施した。
阿武山古墳は34年4月、地震を計測する京都大阿武山観測所の地下掘削工事で発見。石室内には麻布を漆で固めた夾紵棺(きょうちょかん)があり、男性被葬者が布団に包まれた状態で見つかった。毛髪や骨、筋肉繊維まで確認できたうえ、頭の近くでは大量の金糸やガラス玉が散乱していた。
だが、見つけたのが専門外の地震学の研究者らだったことから、ひつぎを運んだ際の振動で内部が損傷した。さらに「被葬者が皇族の可能性がある」として本格調査に至らず、111日後に埋め戻された。
転機となったのは82年。当時報道記者だった牟田口氏が観測所の所長室で当時のX線写真を発見した。京都大に研究会を設けて調べた結果、被葬者が脊椎(せきつい)を骨折し、下半身不随で数カ月間過ごした後に亡くなったとみられることが分かった。被葬者は弓を持つ左肘がスポーツ肘になるなど、弓矢に長じていたとみられ、薬としてヒ素を服用していたことなども分かった。さらに冠の縁は樹皮で、冠の生地の刺しゅうに金糸が使われたと推定できた。
日本書紀によると、鎌足は死の前日に天智天皇から藤原の姓と大織冠を贈られた。大織冠は羅(薄い絹地)で作られ、縁に刺しゅうがされたと伝わる。
今回、牟田口氏は多数の金糸が密集して織られている場所の画像を集中解析し、金糸の構造が綴織の特徴に一致すると結論づけた。生地も同じ綴織の羅であったと推定でき、大織冠とみられるという。また、金糸の形から、朝鮮半島・百済の遺構で見つかった羅と同じ形の花の刺しゅうが施されていたと推定した。
さらに、大織冠で使われた羅と異なり、漆で固めた羅の断片も画像から発見された。大織冠と違う用途の鐙冠(つぼこうぶり)も副葬されたと考えられるとした。
牟田口氏は「遺体まで完全に残った古墳は非常に珍しい。所長室には写真以外にも多くの出土品が残されていた。保管する京都大が公開してくれることを期待したい」と話す。
公開講座「奈良学への招待ⅩⅩⅢ 藤原鎌足の大織冠に迫る」は11月2日午前10時半、奈良市帝塚山7の帝塚山大東生駒キャンパス。申し込みは同大サイトから。定員80人。【稲生陽】
研究会にも参加した猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)の話
写真から生地が羅であると確信していたが、今回の研究成果で鎌足の墓とさらに明確になった。今後議論が進むはずだ。

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