なぜiPadやPCはOKなのに、「スマホNG」なのか…国会で「中身のないルール」が放置されてしまう根本原因

一体いつの時代の規則なのかと驚いた人も多かったことだろう。
11月27日、参院予算委員会で河野太郎デジタル大臣がスマホを使って調べながら答弁をしようとしたところ、委員長から注意を受ける一幕があった。
国会の委員会ではスマホを含めた携帯電話の利用が禁止されている。
あまりに時代錯誤な規則は、この事案を機にネット上で疑問の声があがると共に、報道各社でもニュースとして取り上げられることとなった。
こうした事態を受けて、29日には自民党の小泉進次郎衆院議員ら5党1会派の国会議員が、国会のデジタルトランスフォーメーションについて議論する小委員会の設置を提案する記者会見を開いた。
会見では小泉氏が「世の中から見たら、全然国会のデジタル化が進んでいない。風穴を開けていく」と主張した。
そもそも、なぜ国会の委員会でスマホの利用が禁止されているのか。
衆参両院の事務局によると、参議院では1995年に、衆議院では1996年に議員による議場内での携帯電話の使用などが禁止され、その規則が今も残っているという。
当時は携帯電話の機能が主に電話であり、審議中に電話をしたり、着信音を鳴らしてしまったりすることを防止するために規則が作られたようだ。
しかし、それから四半世紀以上が経ち、携帯電話の多くはスマホに形を変え、主な機能も電話からインターネットなどに移り変わって久しい。
当時の規則をそのまま残して、今もスマホの利用を禁止しているのはおかしいと思う人が大半だろう。
一方で、世の中で進むペーパーレス化の一端で、衆議院では2020年11月から、参議院では2022年3月からタブレットやノートパソコンの使用が解禁されている。
どうして今になってもスマホだけ取り残されてしまったのか。
永田町関係者は「スマホを解禁してしまうと、質疑や答弁中に通信アプリなどでメッセージを受信することができてしまう。そうなると、誰かの指示通りに質問したり、答えたりすることが可能となる。本当に質疑や答弁に立っている国会議員や大臣が自分の考えに基づいて発言しているのかが怪しくなり、審議に影響を与えかねない」と解説する。
現在でも、官僚の用意した答弁書をそのまま読むような大臣は多いが、スマホが解禁されると、他人が用意した文章を、それもリアルタイムに用意されたものを読み上げる懸念が強まるというわけだ。
実際に、衆議院ではタブレットやノートパソコンを委員会で使う際にも、外部との通信を禁止するなどの条件がついており、使い勝手には問題があると言われている。
このように、国会では様々なことが規則や前例、過去の申し合わせによって縛られ、柔軟性に非常に欠けると言われている。
また、ルールを変える際にも、様々な事案を想定して、与野党各党が問題ないと合意しなければならず、簡単ではない。
それは、日本において守らなければならない最大のルールである、法律を作る立法府だからこその性質だと言えるだろう。
国会のデジタル化が進まないということはこれまでもあった。
その1つが、コロナ禍で浮上したオンライン審議の是非だ。
新型コロナウイルスが流行した当初、国会議員が密集する本会議などではパンデミックが起こる可能性があるとして、オンラインで審議をできるようにすべきではないかという意見が出た。
世間ではオンライン会議などが一般的になっており、国会にも同様の仕組みを導入するのは時代に即したものでもある。
しかし、当時立ちはだかったのが憲法上の問題だった。
憲法56条では「総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない」とあり、この「出席」にオンラインを含めるかどうかが争点となったのだ。
議論では、「出席」を議員本人が議場に足を運んで会議に参加することと限定的に捉える「物理的出席説」と、議員本人が表決に加わっていれば、議場にまで足を運ばずにオンラインで参加しても良いとする「機能的出席説」などが出た。
物理的出席説に立つならば、オンライン審議を可能とするためには憲法改正が必要となる。一方で、機能的出席説に立つなら、憲法改正は不要となり、衆議院や参議院の規則を多少変えれば対応可能となる。
たかが、「出席」をどう捉えるかという話であるが、その対象が憲法であるために、憲法学者まで登場して解釈について検討することとなった。
最終的に、衆議院の憲法審査会から出された報告書では、「出席」について「原則的には物理的な出席と解するべきではある」としながらも、「緊急事態が発生した場合等においてどうしても本会議の開催が必要と認められるときは、その機能に着目して、例外的にいわゆる『オンラインによる出席』も含まれると解釈することができる」とした。
なんとも回りくどい言い方だが、要するに、緊急時にはオンライン出席が認められるということだ。
しかし、このように「出席」についての議論が続く中で、現実のコロナ禍に対応しなければならない国会では、本会議に出席する議員を奇数番目や偶数番目に制限する「間引き」を行って密を避けることが先に決まってしまい、結局、オンライン審議についての具体的な制度設計はなされないまま今に至っている。
法律について定める立法府だからこそ、憲法について厳格に議論することは大切ではあるが、臨機応変な対応が苦手であることが露呈した出来事でもあった。
ここまで、国会とデジタル化についての問題を見てきたが、それ以外にも国会では規則や前例でがんじがらめになり、改革が進まないものがある。
それは国会審議そのものだ。
国会では毎年1~3月にかけて、政府から提出された来年度の予算案を議論する。
政府が実施する1年間の政策の方向性について予算という形で示されたものであるため、予算審議は国会の中でも非常に重要なものとして位置づけられている。
しかし、この予算案が国会での議論を経て修正されることはほとんどないのだ。
野党からは予算の修正点などをまとめた「組み替え動議」というものが出されることはあるが、それらは与党によって粛々と否決され、原案のまま予算案を可決するか否決するかだけが国会では問われることになる。
これは、各省庁と折衝して財務省がまとめあげた予算案を国会の議論に合わせて変えるとなると、政府与党の負担が大幅に増えることとなるため、多数を握る与党が原案のまま成立させることが慣習化していることから来ていると見られる。
それなら、何のために国会は存在し、予算について議論しているのか。
予算の中身についていくら議論を重ねても原案のまま成立してしまうため、国会審議の中心は国会議員による不祥事やスキャンダルとなることも多い。
国会の議論を空疎なものではなく、もっと国民生活に即した中身のあるものにするためには、議論に合わせて予算案の中身が変わっていくような柔軟性が必要であるはずだ。
しかし、国会では様々なルールや規則のもとでの日程闘争やフィリバスターで与野党が戦うことが常態化している。
ルールを尊重することは立法府においては非常に大事なことだろう。
それでも、いつまでも時代遅れなルールを放置して、形式にとらわれることが立法府のあるべき姿ではないはずだ。
日本の国会は形式主義に陥っており、急速に変化する時代の波に取り残されて久しい。
国会がこのような有様では、今の時代に即した社会のあるべき姿を、政治の側から指し示すことはできない。
国会を単なる形式的なものではなく、中身のあるものにするために、議員には自らを取り囲むルールの不断の見直しをしてもらいたい。
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(ジャーナリスト 宮原 健太)

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