焼け出された蒔絵職人「またみんなで輪島塗を」 再起誓う産地

「堅牢(けんろう)優美な器」と評され、朱や黒の漆に蒔絵(まきえ)や沈金が美しい「輪島塗」。石川県輪島市の伝統工芸品で、国の重要無形文化財にも指定されている。能登半島地震では、この貴重な技術を受け継ぐ職人らも被災した。同市河井町の観光名所「朝市通り」の一角にあった工房を焼かれた女性職人は「また、みんなでものづくりがしたい」と再起を期している。
工程120以上、分業制が支え
輪島塗は、木を彫り出した「木地(きじ)」の傷みやすい部分に、漆を染みこませた布を張り付ける「布着(ぬのぎ)せ」などが特徴の一つだ。工程は120以上にも及び、一つの作品に6、7人の職人が分業で携わる。「能登の気候と湿度でないと輪島塗は生み出せない」と職人らは口をそろえる。
輪島塗は、膨大な工程を分業することで生産されてきた。輪島市によると、漆器作りに携わる職人や従業員は約1000人、生産額は年間24億円に上る。
組合加盟103社ほぼ被災
石川県によると、主に塗師屋(ぬしや)でつくる「輪島漆器商工業協同組合」の103社のうち、市中心部にある「朝市通り」の火災で12事業所が焼失したほか、ほぼ全ての組合員の工房や事務所が被害を受けたという。
塗師屋「輪島屋善仁(ぜんに)」(輪島市平成町)は倉庫が倒壊し、漆器が割れて商品にならない状態だ。同社が1990年に朝市通り近くで復元した町家「塗師の家」(23年に輪島市に寄贈)も火災で焼失した。同社デザイン室長の川越康さん(59)によると、商品だけの損害で数億円に上る見込み。「ご注文のお客さまから『何年でも完成を待ってます』という連絡をいただいた。再起を目指したい」と話す。
「強い産地へ 立ち上がる」
塗師屋「田谷(たや)漆器店」(同市杉平町)は事務所や工房が倒壊し、新たな販売拠点として完成間近だった朝市通りのギャラリーも灰じんに帰した。
「手を借りながら復興の道を歩むべきだと思った」。同社が抱える職人ら約20人を守るためにも、代表の田谷昂大(たかひろ)さん(32)は再建に向けたクラウドファンディング(CF)を企画。数日で目標額(1000万円)を達成し、さらに支援を受け付けている。支援者へのお礼となる箸やカップは、他の店や組合外の職人にも制作を依頼する予定だ。「輪島全体で立ち上がり、強い産地にしたい」と語った。
輪島漆器商工業協同組合は12日から、募金への協力を呼びかけている。2月に東京で開催される「いしかわ伝統工芸フェア」には、ほぼ予定通り出展する見通しだ。日南尚之理事長(64)は「輪島塗は元気だということを伝えたい」と語った。
道具・材料 多くを失って
「何がなくなったのかも分からない……」。蒔絵師の小西紋野(あやの)さん(40)は、作業場があった老舗塗師屋「小西庄五郎漆器店」を失った。塗師屋は分業の職人らをまとめ、漆器の製造と販売を一括する店だ。夫の実家でもあった。1日の地震直後に発生した火災で焼け、道具や材料の多くを失ったという。
小西さんが手がける蒔絵は工程の後半に位置する。朱や黒に塗り上げられた箱などに、金粉やらでんを施す「加飾(かしょく)」と呼ばれる技法の一つで、草花やチョウなどをモチーフにしてきた。
大学時代、会津漆器の蒔絵師による実演に足を止め、その筆さばきに心を奪われた。漆器を作る工程全てを学べるのは輪島だと考え卒業後の2006年、漆芸家を育てる県立輪島漆芸技術研修所の門をたたいた。
輪島には、お手本となる名工たちがすぐ近くにいる。彼らが緊密に話し合う中で、輪島塗が出来上がる。人も温かく仕事と同様、子育ても見守ってくれた。
「(塗師に)漆を繊細に塗ってもらうことで、蒔絵がきれいに描ける」と小西さんは言う。注文品の制作の傍ら、自らも個展開催を目標に作品作りを進めようと一念発起。2年前から、人づてに共に制作する仲間づくりを進めてきた。その結果、ピンクや黄色のチューリップを花束のように描いた色紙箱が公募展で入選するなど、本腰を入れようとしていたところで今回の大地震に遭った。
「恩返し 諦めたくない」
小西さんは現在、3歳と7カ月の息子2人と共に神奈川県の実家に避難中。「職人は道具と材料があれば仕事ができる。でも、それを失ったために輪島塗から離れてしまう人が出るのがいちばん悔しい」と言う。
ただ、ネット交流サービス(SNS)で、制作再開のための義援金を募るなど、希望は捨てていない。「輪島でまた仕事をしたいと、職人はみんな思っている。お世話になった輪島に恩返しするためにも、諦めたくない」【塚本紘平、小坂春乃】

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