1月20日。元日の地震発生から3週間を前に、私はJNN取材団の一員として能登半島へ向かいました。 早朝3時に金沢市を出発し、地割れや陥没した道路を避け、時には農道を迂回し、4時間半をかけて半島先端部の珠洲市に入りました。(取材:HBC報道部 長沢祐)
人口約1万3000人の珠洲市は、ほぼ全域で断水していて、一時は人口の半数以上が避難所に身を寄せていました。 3週間が経ったその時点でも、被害の全容が把握しきれていませんでした。 目に飛び込んできたのは、見渡す限り至る所で住宅が倒壊している光景。 そして、自衛隊や消防、医療従事者らが多くのテントを張り、支援活動を行っていた景色でした。
「自分はとんでもないところに来てしまったのかもしれない」
画面を通して毎日見ていたはずの被災地。 しかし、実際に自分の目で見た光景は、ニュースで伝えられた映像と全く別の光景に感じてしまうほど悲惨なものでした。
心が落ち着かないまま、デスクの指示で向かった先は、珠洲市春日野地区の山奥。 荒れた道路を取材車がパンクしないようにゆっくり進んでいくと、そこには全壊した1軒の住宅と焼けて真っ黒に炭化した納屋の残骸がありました。
私が訪れる2日前、焦げた納屋からこの家に住んでいたとみられる65歳の男性の遺体が発見されたのです。 男性は、避難所に行っていなかったとの情報があり、周辺を取材すると、近所の住人がこう答えてくれました。
「彼に会った時、私は2回くらい言ったんですよ。『避難すれば』と。彼に言ったんだけど、『大丈夫』みたいなことを言っていた」
死亡したとみられる男性は、柴犬とネコを飼っていて「ペットがいるから避難所にはいかない」と近所の住人に話していたといいます。 男性が飼っていた1匹のネコが、もう会うことのできない主人の帰りをずっと待っていました。 この日、私たちは珠洲市のいまの状況を知ろうと、時間の許す限り現場をまわり、翌日に備えて道の駅で車中泊をしました。
取材2日目。冷たい雨が降る中、向かった先は珠洲市の図書館。珠洲市の中学生が金沢市へ集団避難する日でした。 保護者とともに続々と集まってくる中学生。その中で、家族5人が見送りに来た中学2年生の濱田真桜(はまだ・まお)さんに話を聞くことができました。
中学2年・濱田真桜さん 「ちょっと不安ですけど、友達と会えるので楽しみ。勉強を頑張りたいです」
真桜さん片隅で、寂しい目をしていたのは7歳の妹です。
濱田真桜さんの妹(7) 「さみしい。一緒にいっぱい遊んでくれたから…」
受け入れがたい姉との別れ。ずっと母親の手を握り締めていました。
一方で、集団避難しないと決断した中学生もいました。中学1年生の小町一嘉(こまち・いちか)さんです。
中学1年・小町一嘉さん 「友達が行くので見送りに来た。家族と離れるのが嫌。不安だから」 (友達とはどんな会話を?) 「頑張ってねって。ちょっとさみしい…」
避難した102人の中学生はいま、親元を離れ、施設で寝泊まりをしながら教育を受けています。
取材3日目。朝5時に車に乗り込み、向かった先は、珠洲市から南に約100キロ離れたJR七尾駅です。 取材の目的は、JR七尾線の運行再開です。 七尾線は地震後、金沢から徐々に復旧していた最中で、この日は七尾~羽咋間が復旧したことで、3週間ぶりに金沢までつながりました。
取材時、七尾駅は断水していて、駅舎の外には仮設トイレが並んでいました。ホームの一部もコンクリートが崩れるなど修復しきれていない部分も多くありましたが、多くの高校生が通学のために利用する路線で、JR西日本はなんとか再開にこぎつけました。
部活道具を持った高校生。 参考書を持った高校生。 リモート授業だった高校生たちが、久々の対面授業を楽しみに笑顔で列車に乗り込んでいく姿が印象的でした。
「やっと電車が動いて安心の気持ち。学校でみんなで楽しく話したい」 「この電車がないと、今後遊びにいくこともできないし、復活してくれるのは嬉しい」
喜びの声が多くあった一方で、家の断水がまだ続いていて「家に帰ってからの生活は大変なままです」と不安な表情の高校生もいました。
「断水が終わるまで、部活は行けないです。お風呂に入れないから…」
取材最終日。再び珠洲市に戻った私たちが向かったのはホームセンターです。 翌日に警報級の大雪が懸念されていたため、開店前から灯油のポリタンクなどを目当てに列ができていました。 避難所をまわると、「自衛隊が毎日燃料や物資を運んでくれているから雪への不安はない」との声があった一方で、「もう3週間も肉を食べてない。お前、次来るときは肉を持ってきてくれ」と冗談交じりで会話をしてくれた男性の言葉が私の胸に刺さりました。
海岸線近くの道端で出会ったのは72歳の男性です。 自宅と店を兼ねた建物は傾いていて、倒壊危険度を示す張り紙は、立ち入り危険を示す「赤」判定。 周りの住人は全員避難していますが、避難所には行かないといいます。
「俺は、夜に長い時間寝てられなくてな。避難所に行って夜中に動いたりしたら、みんなに迷惑かけちゃう。スタッフも大変なのに、俺が行くことでさらに厳しい環境にしてしまう。みんなの顔がわかる古き良きマチだからこそ、わがままは言っていられない」
この家はあす、大雪の重みに耐えられるだろうか。 私はそれを見届けることなく、男性に「危険を感じたらすぐに避難してくださいね」と声をかけ、珠洲市を離れました。
今後、能登半島はどのように復興を遂げていくのか、想像もつかないほどの被害を受けている状況ですが、珠洲市で取材したある女性の言葉がずっと忘れられないでいます。
「ここで泣いて「どうにもならない」って言っていられない。年を取れば取るほど、私たちは国に頼るしかないんです。ここで生き延びていこうと思います」 「縁があったら珠洲を思い出して、また見に来て。1年後でも2年後でも、この町がどう復興していくのか見てあげてほしい」
◆取材:HBC報道部 長沢祐