〈 《全長13m、高さ最大4mの巨大モニュメント》「イカキングを復興のシンボルに」という動きに、地元住民の反応が鈍いワケ 〉から続く
津波被害が想定される観光施設なのに、避難路の案内看板さえなかった石川県能登町の「イカの駅つくモール」と敷地内にあるイカキング。だが、能登半島地震が起きる前から町に対策を取るよう訴え続けていた地元住民がいた。残念なことに、役場の反応は鈍かったという。
その人はどのようなリスクを予想し、実際にどのような被害があったのか。
津波で深刻な被害を受けるリアス式海岸
「ここは津波が来た土地です。また浸水するかもしれません。先に避難経路を確認していますか」
川端邦彦さん(58)は「イカの駅つくモール」を訪れる復旧工事の作業員や警察官らに声をかけている。「ハッと気づいて、青ざめる人もいます。自分の命は自分で守らなければならないのです」と語る。
のっぺりとした水面が湖のように見える九十九湾は、穏やかで自然災害など無縁なように見える。事実、台風が近づいてもほとんど波が立たないのだという。リアス式海岸の入江の特徴だ。
しかし、津波となると別だった。湾口から侵入した津波は、湾奥部へ進むに従って迫り上がる。
2011年に発生した東日本大震災でも多くのリアス式海岸の湾で深刻な被害が起きた。
能登町が作成したハザードマップによると、「イカの駅つくモール」の辺りは想定される津波の浸水深が3~5m。施設は木造平屋建てなので、天井まで浸水してしまいかねない深さだ。
津波に無関心でいられない場所にある自宅
川端さんの自宅は「イカの駅つくモール」の近くにある。この地に代々住んできた一族の10代目に当たる。
生まれたのは同地であっても、育ったのは東京都だった。大学を卒業してからは神奈川県に住んだ。
帰郷したのは2012年に母が亡くなり、2年ほどしてからのことだ。病気の父の面倒を見るためもあった。
自宅は九十九湾のすぐそばにある。津波には無関心でいられない場所だ。東日本大震災で報じられた津波の映像や過酷な体験が他人事には思えなかった。
当時は東日本大震災の記憶が生々しい時期で、各地で高台に避難路が造られていた。川端さんも裏山に逃げられるよう町に申請した。約130段の階段を登ると標高15mほどの地点に逃げられる。
大事な物をすぐに持って逃げるため、カバンにまとめておくようにした。
「冬の避難では、翌朝の寒さをしのがなければならない」と考え、極地で使用される防寒着も入手した。
「被害が予想されるような場所に、なぜ観光客を呼び込むのか」
その後の2020年6月、町が「イカの駅つくモール」を建設して、指定管理で営業を始めた。2021年3月には、さらなる誘客のために、全長13mのスルメイカのモニュメント「イカキング」を造った。
川端さんは疑問に思った。
「なぜ、津波被害が予想されるような場所に、観光客を呼び込むのか」
「イカの駅つくモール」が建設された場所は、もとは川端家の土地だった。しかも、塩田として使われていた。
「塩田とされたのは、海抜が低く、潮が入りやすい地形だったからです。逆に言えば、津波が起きた時に最も被災しやすい土地でした」と指摘する。
そこから避難するとなると、近くの県道を上がった標高43mの地点が緊急避難場所に指定されている。なのに、避難路の案内看板さえなかった。
子どもの日だったらタダでは済まなかった
この県道には「イカの駅つくモール」から近道で登れる階段もあった。本来は農作業で地元住民が通るために県が整備したものらしいが、災害時には徒歩での避難路としても使える。しかし、草や雑木が生い茂って、歩けるような状態ではなかった。
川端さんは町の担当者に「草木を刈り払って通れるようにし、避難路として使えると案内看板を出してはどうか」と何度も提案した。メディアにも取り上げてほしいと連絡した。が、対応してもらえなかったという。
不安が「現実」になりかけたこともある。
2023年5月5日、隣の珠洲市で最大震度6強を計測する地震が発生した。奥能登地域では2020年12月から群発地震が起きており、同市で死者が1人出るほどの揺れだった。
能登町の震度は5強。津波は輪島市で10cm、珠洲市で4cmを観測したが、九十九湾への影響はなかった。
川端さんは「あの日は駐車場いっぱいにお客さんが来ていました。もし津波が来ていたら、どこに逃げていいか分からず、大混乱になっていたと思います」と語る。
「せめて人がたくさん来るゴールデンウイークを中心にして防災対策月間とし、備蓄を整備するとか、災害対策のキャンペーンを行うとかしてはどうか」と能登町の担当者に提案したが、これも実現しなかった。
いつ鳴るか分からないゴングを待ち続けるボクサーと同じ
そして2024年1月1日、実際に津波が来襲する。
正月休みで観光客がいなかったのが、不幸中の幸いだった。
川端さんは、災害から生き延びるための取り組みを「いつ鳴るか分からないゴングを延々と待ち続けるボクサーと同じ」と言い表す。
「普段から準備して、十分なシミュレーションをします。いざとなって、考えていたら間に合いません。発生したら、シミュレーションしてきた通りに動けるかどうかに集中するのです。ただ、『その瞬間』がいつ来るか分かりません。必ず来るけれども、いつかは分からないのです。だから、いつゴングが鳴るか分からないボクサー。ゴングが鳴った瞬間から生きるか死ぬかの闘いが始まるのです」
「津波は計5~6回押し寄せるのが見えました」
あの日、川端さんは自宅で作業をしていた。既に父も亡くなり、広い敷地に独りで住んでいた。
「群発地震で大きな揺れがある時には、地鳴りというか振動というか、何かが迫ってくるのが分かります。そしてダンと突かれるような地震が起きるのです。ところが、今回は何の前触れもなく、いきなりでした。そして、グワシャッという岩が崩れるような音がしました。これまでに何度も地震が起きていたので、地面に耐える力がなくなっていたのだろうかと思いました」
急いでパソコンからハードディスクを取り外し、貴重品を入れるカバンに突っ込んだ。玄関に掛けてあった防寒着を素早く着込む。
自宅の前を流れる小さな川では、底から土がわき上がっていた。いつもなら見えない岩も露出していた。「川の底が液状化したのか」と驚いた。
裏山の階段を登り、家や海の方へ目を凝らす。
「船着場の方から浸水して来ました。最も海側には安政元年に先祖が建てた築後約170年の母屋があります。これが水切り役になって、津波の勢いが弱まり、私が住んでいる平屋の家や、その後ろのお宅などが損壊から守られました。津波は計5~6回押し寄せるのが見えました」
「独りで何も言わずに、消えるようにしていなくならないでね」
海水が引いた後、敷地内には丸太など、どこから流れ着いたかわからないような物が多く残された。
床上浸水した居間にはいられたものではない。玄関にストーブを持ち出し、炊き出しのような食事を作りながら過ごした。
被害を目の当たりにすると、気持ちは荒んでいった。
「敷地に残された瓦礫を蹴るなどしながら、『俺はここの生まれだけど、育ったのは東京だし、友達も少ない。もうこんなところ、どうでもいいや』と捨て鉢になっていました」
そうした時、女性が川端さん宅を訪れた。1月3日のことである。
川端さんより少し上の年代で、面識はなかった。
女性は「お母さんにお世話になりました」と話し始めた。
川端さんが帰郷する2年ほど前に亡くなった母は手芸が得意だった。女性は手芸の教え子のような存在で、亡くなった父母とは懇意にしていたのだという。帰って来た川端さんのことが気がかりだったが、わざわざ訪れるようなことまではしていなかった。女性の家は高台にあり、津波の被害には遭わなかった。
ひとしきり自己紹介が終わると、女性はいきなり「独りで何も言わずに、消えるようにしていなくならないでね」と言った。それが心配で川端さん宅まで来たのだった。
川端さんは心の中を見透かされたような気がした。と同時に、涙が出て止まらなくなった。
荒んだ心を癒されて
女性は何かにつけ気にかけてくれるようになった。川端さんは少しサイズの小さい防寒着を女性にプレゼントした。今後も大きな余震が来ないとも限らず、津波がまた来るとも言われている。避難するようなことがあれば、着てほしかった。
先祖が約170年前に建てた母屋に守られ、母が絆を遺した女性に荒んだ心を癒され、川端さんは代々のつながりという人間の縦軸の中で生かされているのを実感していく。
「イカの駅つくモール」では、災害支援に来た人などに「避難路を確認していますか」と声かけを続けた。そうした行動が防犯活動に役立っていると地元の人々から感謝されるようになり、川端さんは地域社会という横軸の中でも生きていることを実感した。
残念なのは、観光客向けの防災案が被災後も実現していないことだ。
「イカの駅つくモール」は4月8日、物販コーナーだけ時間を限って営業を再開した。
また、ゴングが鳴らないことを願う。
写真=葉上太郎
〈 「地震から4カ月が経っても路頭に迷う人がいることを忘れないで」能登町の漁師達が訴える先行きが全く見えない”惨状” 〉へ続く
(葉上 太郎)