石川県珠洲(すず)市の横場松男さん(61)は、元日の能登半島地震で倒壊した自宅に市内の避難所から通い、思い出の品を少しずつ取り出している。4月下旬、がれきの中から白木の一合升を見つけた。地震で犠牲になった父政則さん(当時85歳)が大切にしていたものだ。父のことを思う時、振り払いたいあの日の記憶がよみがえる。
「父がやってきた仕事の証し。無趣味で遺品になるような物はないけれど、これだけは床の間の飾り棚に大切に置いていた」。トンネル建設現場のリーダー格だった父が、貫通記念に会社からもらったものだ。
父は自営の瓦職人だったが、需要の減少で50歳を前に廃業。トンネル工事の作業員になった。同県七尾市の自動車専用道にあるトンネル建設にも従事。横場さんに升を見せながら「このトンネルは自分が掘ったんだ」と自慢した。だが、70歳を過ぎた頃に工事の影響でじん肺になり、1年前からはほぼ寝たきりだった。
あの日、2度目の激震が襲った際、ピーピーという音が自宅に鳴り響いた。停電で父の酸素吸入器が止まったことを知らせる警告音だった。2階にいた横場さんも、床を転げ回った。気付くと、壁があるはずの場所に空が見えた。「これは死ぬな」と覚悟した。
揺れが収まり、何とか外にはい出ると、木造2階建ての自宅は北側に数メートルずれるように倒れていた。南側の居間や台所にいた妻や母、2人の子供たちは自力で脱出した。しかし、父の姿が見当たらない。上階が崩れ落ちた1階のその場所が、父の寝室だった。
近所の人が駆けつけ、2人で柱やはりを持ち上げようとしたがびくともしない。横場さんが津波を目撃したのはそんな時だった。「自分だけなら、津波が来ていても残ったかもしれない」。だが、家族や近所の人を巻き込むわけにはいかない。すぐそこにいるはずの父に「津波が来ている。悪いけど先、行くぞ」と声を掛け、高台へ急いだ。
父の遺体は1月3日、地元の消防団員が見つけてくれた。ベッドで目を見開き、両手を突き上げた状態で亡くなっていた。
職人かたぎで厳しかった父。孫が生まれた時にはこいのぼりを飾るためにと、山から木を切り出して高さ15メートルほどもある支柱を作ってくれた。「いいおやじだった。地震の前日、一緒に酒を飲めただけよかった」。その日は外に置かれた畳の上に父を寝かせ、夜更けまで警察の到着を待った。
横場さんは約35年勤めた工場を4月末で退職した。会社からは続けてほしいと言われ、自身も65歳までは働くつもりだった。だが3交代勤務のため、夜間に出入りすることもある。避難所での生活では、周りに迷惑がかかると考えた。
「輪島塗のお膳セットも取り出したいけれど、もう使う機会はないのかな」。4月下旬のこの日も自宅に横場さんの姿があった。崩れた屋根によじ登り、2階の窓から出入りする。黒光りする瓦が乗った屋根は約30年前、父と一緒にふいたものだ。100年ほど前から家に伝わる大きな鬼瓦も2人で慎重に取り付けた。
「それでも珠洲で生きる」
近くの観光スポット・見附(みつけ)島は、地震で崩落し大きく姿を変えてしまった。これから古里がどうなってしまうのか、不安は尽きない。それでも、父や祖父が生まれ育ったこの地を離れるつもりはない。「ここには海も山もあるし、見知った人もいる。おやじも『しっかり家族と家を守れよ』と言ってくれてるはず」。自らを鼓舞するように語った。【阿部弘賢】