〈 520人が死亡する「最悪の飛行機事故」は日本の奥深い山中で起きた 現地カメラマンが忘れられない「窓越しの遺族の表情」 〉から続く
今年1月2日、羽田空港で日航機と海保機が衝突し、海保機の乗員5名が死亡する痛ましい事故が起きた。日航機の大きな事故は、昭和の時代に起きた御巣鷹山日航機事故以来である。
この39年前の事故の犠牲者は520名にも及び、今もってなお、単独の航空機事故としては、世界最多の犠牲者を出した事故として記録されている。その凄惨な現場を取材したカメラマンの橋本昇さん(70)が、当時の状況を語った。
対策本部が設置された南相木村からぶどう峠に入り、ついに徒歩で自衛隊員を追いかけて急峻な山道を登りはじめた橋本氏。御巣鷹山はこの山を越えた先である。
スーツにネクタイ、革靴で倒れていた新聞記者
「早く現場に着きたいと焦っても、普段はほとんど人が入っていない山で、30度くらいの急斜面に、獣道に毛が生えたような道しかない。ぜいぜい息を切らしながら200メートルくらい登ったところで、木も草も生えていない平らな場所に出たら、新聞記者が1人伸びて倒れていたんですよ。
声をかけたら、『水を持っていませんか』と言うんですが、その人の格好がスーツにネクタイで革靴なんです。いくらなんでも想像力が足りないなと思いました。しばらく歩くとまた人が倒れていて、こっちは顔見知りの新聞記者でした。山道には放送局名が書かれた業務用ビデオカメラまで落ちていた。重いので、撮ったテープだけ抜いて捨てていったのでしょう」
現場周辺では、暑さによる喉の渇きと疲労で動けなくなる報道関係者が続出し、道に迷って遭難した記者らが長野県警に救助を要請し、ヘリで救出されたりしていた。後にマスコミ関係者の問題行動として批判されたが、それほど過酷な現場でもあった。
「4時間ほど歩いて、墜落現場の近くに着いたころにはもう昼ごろになっていました。御巣鷹山の向こう側から、何機ものヘリの音が聞こえてきて、後でわかったのですが、生存者をヘリで吊り上げて救出していた頃でした。尾根から今度は谷底に向かって400メートルくらい降りていくのですが、こちらも急峻で、何度も足を踏み外して転がり落ちた。
なんとか谷底にたどり着くと、目の前にジェットエンジンがあって、思わず息を飲んだ。主翼下のエンジンの1つが、外側のナセルを失って剥き出しで横たわっていたんです。触ると冷たくて、ささくれた軽合金の触感が手のひらに伝わってきました」
後の事故検証によれば、日航123便は、機体後部にある圧力隔壁の修理が不十分で、飛行中に吹っ飛び、破片が垂直尾翼と油圧操縦システムを破壊して操縦不能に陥ったとされている。コントロールを失って高度を下げていく機体を、機長はエンジンの推力だけで上昇させようと試みたが果たせず、出力を上げたことが仇となり、時速630キロという猛スピードで、右主翼から御巣鷹山の稜線に突っ込んだ。
ここで3つのエンジンが脱落し、衝突の衝撃で機体は前のめりに裏返って尾根に激突。機体の前部から中央部が原形をとどめぬほど粉砕され、機体後部は分離して山の稜線を越え、反対斜面を滑り降りた。その機体後部で、4名の生存者が発見されたのは奇跡としか言いようがない。
「手にぬるっとした感触があって、見ると泥の混じった肉なんです」
脱落したエンジンの先には、地獄のような光景が待っていた。
「エンジンがあった谷底から、また藪をかき分けるように登っていきました。足元を見ないと歩けないような急坂で、木や草を掴みながら上っていくんですが、ある時草を掴んだら手にぬるっとした感触があって、手のひらを見ると泥の混じった肉なんです。だけどその瞬間は感覚が麻痺していて、臭いをかいで生臭いなと思うくらいで、手を簡単に拭くとすぐにまた歩きはじめました」
さらに進んでいくと、突然視界が開けた。墜落した機体が周囲の木々をなぎ払い、航空燃料が燃えて焼き尽くしたことで、墜落現場付近が切り開かれていたのだ。
「まだいたるところから炎や煙が上がっていて、鼻をつく強烈な異臭が漂っていました。ケロシン(航空燃料)の燃える臭いと、髪の毛などのたんぱく質が燻る臭いが混ざっていたんだと思います。大きな字でJALとペイントされた主翼も落ちていて、その周辺には手足など遺体の一部や細かい肉片、JALのマークがついた酸素マスクや乗客の荷物などが散乱していました。お札がぎっしり入った財布が落ちていて『免許証が入ってれば身元がわかるかもな』とやけに冷静に思ったことを覚えています」
現場にはすでに30人ほどの自衛隊員や消防隊員、警察官の姿があり、遺体を毛布に包み、ビニール袋を持ってバラバラになった部分遺体を拾い集め、炎にスコップで土をかけて火を消していた。誰もが与えられた仕事をただ黙々とこなしていた。
「周囲の警察官が忙しく働いているなか、嗚咽を漏らしながら呆然と仲間の作業を眺めて立ち尽くしている警察官がぽつんぽつん立っていました。でも『仕事しろ』と注意する人は誰もいませんでした。あの状況で動けなくなるのは普通のことですからね……」
事故現場で作業をした人のなかには、PTSDを発症したり、二度と飛行機に乗れなくなった人も多かったという。
一方、橋本氏にも与えられた仕事がある。事故の悲惨な現場を写真で伝えることだ。
「私の方針は、遺体そのものを直接写さないことでした。布にくるまれた遺体までが限界。どこを見ても遺体や肉体の一部が散乱していた状況でしたが、持っていったフィルムの本数も少なかったので、1枚1枚を慎重に撮りました。日が暮れてきたところで、自然に周りも動きが止まりました」
現場で待機する者を残して、自衛隊員や警察官らは山を降り始めていた。
「日中に、陸上自衛隊の精鋭である習志野空挺団がヘリから降下してきて、周辺の木を切って土嚢を積んで、あっという間にヘリポートを作っていた。自衛隊や警察が優先なんですが、空いているときに新聞社のヘリも使っていました。大手新聞の記者はヘリで帰っていったので、羨ましかったですね」
橋本氏に迎えは来ない。歩いて山を降りるか、飛行機の残骸と遺体の山の中で一夜を明かすかどうかを決める必要があった。
「たとえ戻れても、山を越えてまた来るのに半日かかるので、現場で夜を明かすことにした。と言っても周囲の木はなぎ倒されて、土がむき出しになった斜面に腰を下ろすような状態。残ったのは10人くらいで、翼の近くに自然に集まって沈む夕日を無言で呆然と眺めていました」
12日の事故発生から徹夜で現地へ駆け付けた橋本氏は、その間食パンしか食べていなかった。急に空腹感を感じてリュックから弁当を取り出すと、夏場だったため、ご飯が糸を引いていた。近くにいた顔見知りのカメラマンに「2つあるので、お1つどうですか」と弁当を差し出すと、「食欲があるんですね……」と苦笑されたという。
「戦争で亡くなった方の遺体は『人間の形』をしているんです。でも…」
「何気なく地面に腰を下ろしたら、脚の間に人間のくるぶしから先の部分が落ちていました。くるぶしより上は白い骨で、膝のところで切れていて……。こんな場所にいたら、食欲が出ないのが普通なんでしょうね。私が生まれて初めて海外に行ったのがカンボジアの内戦取材で、それ以来戦地の取材も多かったんで遺体を見慣れていて、麻痺していたのかもしれません」
なんとか冷静さを保っていた橋本氏だが、戦地と比べても御巣鷹山の現場は全く異質な空間だったという。
「戦争で亡くなった方の遺体の多くは『人間の形』をしているんです。そうすると、こちらも『かわいそう』という気持ちが湧いてくる。でも御巣鷹山は、唐突に手や足だけが落ちていて、どこともわからないような肉片もそこらじゅうにあります。あれほど凄惨な場所は見たことがありません」
夜になると、真夏とはいえ山中の現場は冷え込んできた。そこかしこでまだ炎がチロチロ燃えていた。
「寒くなってきたので、自衛隊員から遺体を包むための毛布を借りました。平らな場所がほとんどなく、あってもそういう場所は翌日運ぶために並べられた遺体で埋まっている。仕方ないので、遺体の間に潜り込むようにして寝ました。それを見た自衛隊員から『遺体と間違われて運ばれるぞ』と冗談を言われました。ただ体は疲れきっているのになかなか寝つけず、うとうとしていたら朝方、寝ぼけて家にいると錯覚して周りを見渡してうろたえたのを覚えています」
夜が明けると、自衛隊員や警察官らがやってきて、遺体の回収作業が再開された。
「朝も少し現場を見て回って、締め切りもあるので昼頃に下山を決めました。南相木村の役場に行くと昨日の運転手さんが待っていてくれて、本当に助かりました。そのままハイヤーで東京の編集部に直行してもらい、撮影したフィルムを届けました」
橋本氏の撮影した写真は、「週刊文春」のモノクログラビアに掲載された。最初のページには、JALの文字が入った折れた翼の写真が使われていた。
「なぜ520名もの人が死ななければいけなかったのか」
今の時代からは想像しにくいが、当時は写真誌を中心に“死体ブーム”という奇妙なブームが起きていて、露悪的にグロテスクな死体写真を掲載することが流行っていた。一部のメディアではあからさまに遺体の一部が写っている写真が使われて問題視されたが、そんななかにあって、橋本氏の写真は極めて抑制的だったと言える。
「事故から38年後の昨年の8月12日に、遺族の方たちに同行して、慰霊登山に参加しました。現場を訪れるのは、30年以上ぶりだったと思います。娘がここで亡くなったという80歳を過ぎた遺族の方も、山道を登っていました。燃えて炭化していた木々から芽が出ていて、40年近くの年月を感じさせましたが、私が昨日のことのように鮮明に覚えている以上に、遺族の方たちにとっては忘れられない惨事だったと思います。なぜ520名もの人が死ななければいけなかったのか、改めて考えさせられました」
日本航空では毎年、4月に入社した新入社員をこの慰霊登山に参加させているという。事故を忘れたときに、また事故は起きる。記憶を紡ぎ、つないでいくことが大事だ。
(清水 典之)