新たな静岡県政の最高責任者に就いた鈴木康友知事が、早速リニア問題の解決に向けて大きく舵を切った。
川勝平太前知事が約2年にわたって粘着していた「山梨県内の調査ボーリング」の言いがかりを退けたからだ。
川勝氏は2022年以降、「水一滴も県外流出は許可できない」として、「静岡県の水を一滴でも引っ張る山梨県内の調査ボーリングをやめろ」を主張し続けた。
ところが、鈴木知事は「山梨県内の調査ボーリング」だけでなく、調査ボーリング以上に大量の湧水流出が懸念される先進坑、本坑掘削工事でも、「『静岡県の水』という所有権を主張せず、『静岡県の水』の返還を求めないこと」にあっさりと合意したのだ。
リニア工事では、ボーリング調査を経て、「先進坑」と呼ばれる一回り小さなトンネルを掘り、その後リニアが通る「本坑」を通す。
後述するが、元をたどれば「調査ボーリングをやめろ」の主張の発端は「先進坑掘削をどこで止めるか」だった。
問題の発端となった先進坑の掘削工事にまで踏み込んだ合意で、これまでの無理難題を持ち出した“川勝色”は一掃され、水資源保全の問題は解決に向けて大きく前進した。
発端は静岡県が2022年10月13日、リニア工事に関する新たな協議を要請する文書をJR東海に送りつけたことだった。
静岡県の当時の主張はおおよそ次の通りだ。
山梨県内のトンネル掘削で、距離的に離れていても、高圧の力が掛かり静岡県内にある地下水を引っ張る懸念があるから、静岡県内の湧水への影響を回避しなければならない――ひいては、「静岡県境へ向けた山梨県内の工事をどの場所で止めるのか」を決定する必要がある。
この文書を受け取ったJR東海は静岡県の要請に困惑してしまう。
理論上、トンネル掘削することで高圧の力が掛かり、トンネルに向けて地下水を引っ張ることはありうる。JR東海も静岡県の要請を頭から否定できなかった。
ただ断層帯がない限り、湧水量は極めて微量であり、さらに締め固まった地質では引っ張り現象が起こらない可能性が高い。
しかし、県境手前約300メートルを越えれば、山梨県内の断層帯にぶつかり、大量の湧水の可能性がある。
実際には、調査ボーリングをやってみなければ、湧水があるのかどうかもわからないのだ。
一方で、このボーリング調査は山梨県内の工事であり、静岡県の行政権限は及ばない。
静岡県は懸念を解消するようJR東海に「要請」しているに過ぎないが、実際は、「山梨県内の工事を止めろ」と求めていることに等しい。
ただその要請自体がふつうに考えればおかしいのだ。
というのも、地中深くの地下水は絶えず動き、地下水脈がどのように流れているのかわからない。
県境付近の絶えず動いている地下水に静岡県のものも山梨県もない。それなのに、「静岡県の地下水圏」があるとして、県境付近の地下水の所有権を主張することはあまりにもおかしい。
山梨県の長崎幸太郎知事は、静岡県のJR東海への要請書に強く反発した。
長崎知事は「山梨県の話をするのに、知事にひと言もないのは遺憾だ」と不満の声を上げた。
10月26日に静岡市で開かれた関東地方知事会議で、川勝氏は長崎知事に直接「あいさつ」した。長崎知事も一定の理解を示したが、この問題の根が深いことを長崎知事は理解していなかった。
というのも、その後静岡県は、山梨県内のリニアトンネル掘削工事から調査ボーリングに問題を飛躍させてしまったからだ。
その立役者となったのが、県地質構造・水資源専門部会の森下祐一・部会長である。
2022年12月11日、「大井川流域の10市町首長と県地質構造・水資源専門部会委員との意見交換会」が初めて開催された。静岡県は流域の首長たちを味方につけることで、JR東海を従わせようとした。
もともとトンネル内に圧力が掛かるから静岡県の水が引っ張られるとする主張自体が難癖でしかなく、さらに「調査ボーリングをやめろ」の主張にいたっては、ほとんどの首長は理解できなかった。
意見交換会は進行役を務めた森下部会長の独り舞台となった。
会議の冒頭から、森下部会長は、「山梨県の高速長尺先進ボーリングをやめろ」だけを標的にした。
以下が森下部会長の主な発言である。
「JR東海は『調査ボーリング』と言っているが、目的は全く異なる。現在の不確実性を確実にする科学的データは得られない」 「この調査ボーリングにより静岡県の地下水はどんどん抜けてしまう」 「山梨工区の先進坑が現在の位置で停止したとしても、静岡工区の工事を始めてから再開すれば十分に間に合う。静岡県の地下水が県外に流出するリスクを冒してまで県境付近で工事を進める意義はない」 「もし、それでも調査ボーリングをしたいということであれば、工事前の水抜きを目的としている」
そんな中で、島田市の染谷絹代市長ら複数の首長が「調査ボーリングはやる価値がある」などと森下部会長に反論した。
これに対して、森下部会長は「調査ボーリングはいまやる必要はない。その方向性で、これから専門部会で、ぜひその問題に注力していきたい」などと強引に専門部会の議題とすることにしてしまった。
この意見交換会を受けた形で、山梨県内の調査ボーリングを議題とする地質構造・水資源専門部会が2023年1月25日に開かれた。
そこで、森下部会長が「調査ボーリングで静岡県の地下水が抜けてしまうリスクを冒してまで県境付近で工事を進める意義はない」と発言し、JR東海に「山梨県の調査ボーリングをやめろ」と求めた。
森下部会長はあまりにも強引な会議運営を行ったが、流域首長たちと同様に、JR東海を従わせることはできなかった。
静岡県は1月30日、「地下水が流出する恐れの低いと考えられる区間を、科学的根拠に基づき設定し示すこと」などとする意見書をJR東海に送り、執拗(しつよう)に調査ボーリングを妨害しようとした。
それでもJR東海は2月21日から山梨県内の調査ボーリングを開始した。
川勝氏は「本当にけしからん」と怒り心頭に発し、「静岡県側の断層帯と山梨県側の断層帯がつながっている可能性を示したデータがある」などと、またまた違う新たな問題を持ち出した。
その直後の2月28日の会見で、川勝氏は「調査ボーリングをするという差し迫った必要性は必ずしもない」と勝手に決めつけた上で、「山梨県側の断層および脆い区間が静岡県内の県境付近の断層とつながっている。それゆえ、いわゆる『サイフォンの原理』で、静岡県内の地下水が流出してしまう懸念がある」とトンデモない主張をしたのだ。
もし、この2つの断層でサイフォン作用が起きてしまえば、まさに超自然現象である。つまり、「世界最大級の断層地帯」が続く南アルプスの地下は“オカルト世界”になってしまうのだ。
その後、川勝氏はさすがに「サイフォンの原理」の誤りを認めたが、今度は森下部会長が「高圧水で静岡県の地下水が抜けてしまう」などと主張し、川勝氏もそれに乗っかった。
静岡県は5月11日、「静岡県が合意するまでは、リスク管理の観点から県境側へ約300メートルまでの区間を調査ボーリングによる削孔(さっこう)をしないことを要請する」とした意見書をJR東海に送った。
もう一方の当事者である長崎知事は「山梨県の工事で出る水はすべて100%山梨県内の水だ」と断言した上で、「山梨県内のボーリング調査は進めてもらう。山梨県の問題は山梨県が責任をもって行う」などと強い調子で山梨県内の調査ボーリングを進めることを宣言した。
それでも静岡県は2024年2月5日になって、「リニア中央新幹線整備の環境影響に関するJR東海との『対話を要する事項』について」と題する記者会見を開いた。
この会見で、「山梨県内の調査ボーリング問題」を既成事実かのように今後の「対話項目」に入れてしまった。
「トンネル工事が県境付近に近づくことにより健全な水循環への影響が懸念される」として、「高速長尺先進ボーリングが県境から山梨県側へ約300メートル区間の地点に達するまでに、その懸念に対する対応について説明し、本県等との合意が必要である」とあらためてJR東海に求めたのだ。
どう考えても、「健全な水循環への影響の懸念」が何かわからない。県境付近の地下水を指して、「健全な水循環」があることなど理解できないからだ。
リニア環境影響評価準備書に対する知事意見書では、「山梨県における工事が本県を流れる富士川に及ぼす影響、長野県における工事が天竜川に及ぼす影響について示すこと」と記されている。
山梨県の工事は富士川への影響を言っているのであり、大井川水系や「静岡県の健全な水循環」とは全く無関係である。
ここまでこじれにこじれたボーリング問題だったが、川勝氏が辞任し、その直後に開かれた地質構造・水資源専門部会は、山梨県の調査ボーリング再開をあっさりと容認した。
ただ、調査ボーリングで静岡県の地下水が山梨県に引っ張られるとしたら、調査ボーリングよりも先進坑掘削がさらに大きな問題となってしまう。
調査ボーリングの断面直径は約12~35センチだが、先進坑のトンネル幅は約7メートルとケタが全く違う。
静岡市の難波喬司市長は昨年6月、「調査ボーリングによる湧水量は、先進坑掘削に比較して、1.8%程度しかないから調査ボーリングを進めるべきだ」と発言した。
この発言を逆から考えれば、先進坑掘削で出る湧水は膨大な量となるから、「先進坑掘削をどこで止めるか考えるべき」となってしまう。
本坑であるリニアトンネルの幅は約14メートルもあり、本坑掘削では先進坑掘削とは比べられないほどの大量の湧水量が懸念される。
「静岡県の地下水はどんどん抜けてしまう」(森下部会長)が現実になる恐れもある。これでは山梨県のトンネル工事はできないことになる。
鈴木知事は6月19日、山梨県内の調査ボーリングだけでなく、先進坑、本坑の掘削工事すべてに『「静岡県の水」という所有権を主張し、返還を求めるものではない』ことを前提に合意した。
山梨県側は、以前から先進坑、本坑掘削工事すべてでの合意の働き掛けを行ってきた。
6月7日に都内で開かれたリニア沿線知事による「期成同盟会」開催前に、懇意の長崎、鈴木の両知事による非公開の懇談が行われた。その席で長崎知事があらためて山梨県の立場を理解してもらえるよう要請したとみられる。
そもそも「超自然現象」「トンデモ科学」と言える「静岡県の水が引っ張られるから、山梨県内の調査ボーリングをやめろ」がまかり通ったこと自体がおかしかった。
これまで川勝氏の新たな言い掛かりを、森下部会長らが補強して、静岡県行政が支えてきた。
今後、鈴木知事の社会常識に沿った判断で、スピード感を持ったリニア問題の解決が図られることに期待したい。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)