リニア開業に立ちはだかっていた川勝平太前知事の退場で、リニア工事は早期開業に向けて大きく前進していくと見られていた。
だが、蓋を開けてみると、そんなにうまい具合には行っていないようだ。
JR東海はことし3月、南アルプスのリニアトンネル工事静岡工区の未着工を理由に、2027年リニア開業の断念を発表した。
実際には、静岡工区だけでなく、リニア沿線の各地域でさまざまな課題があることはわかっていた。
7月13日から静岡新聞をはじめリニア沿線の地方紙5紙が連携して、「リニアのいま」と題する特集企画を5回にわたって連載した。
そこには沿線各地の抱える課題がクローズアップされていた。
「岐阜・水源の水位低下 JR東海へ不信感 工事中断で住民との溝深く」(岐阜新聞)
「山梨・実験線延伸で水枯れ 井戸管理費用の補償30年方針 将来の不安残る」(山梨日日新聞)
「長野・長引く工事で住民に負担 住宅移転も駅完成遅れ 沿線自治体に不安が広がる」(信濃毎日新聞)
「神奈川・最も工事進む 夢と現実のはざま 住民の暮らしに影落とす 立ち退きの犠牲」(神奈川新聞)
各紙ともリニア工事が順調に進んでいるという論調にはほど遠かった。その中では、神奈川県は最も工事が進んでいるように見える。
そんな神奈川県でも、川勝知事が2022年9月に神奈川県駅工事現場などを視察した際、2027年のリニア開業が困難になっている大きな理由として、関東車両基地の用地買収が進んでいないことを挙げた。
これに対して、当時、黒岩祐治知事は「約5割の買収が終わった」などと述べていた。
神奈川県は強硬なリニア反対の立ち木トラスト運動が起きていた地域であり、神奈川新聞には、現状がどうなっているのか報告してもらいたかった。
肝心の静岡工区の未着工の現状はいまも変わっていない。
川勝知事の後を受けた鈴木康友知事はさまざまな会見で、「スピード感を持ってリニア問題の解決を目指していく」と述べている。
それに対して、今回の特集企画で、静岡新聞は「事業前進へ積極姿勢 鈴木知事『巧遅より拙速』」と、何ともわかりにくい見出しをつけた。
「巧遅は拙速に如(し)かず」とは、内容よりも迅速に物事を進めることを優先すべきという意味だ。そんな鈴木知事の姿勢を静岡新聞は「スピード感」はあっても、内容が雑でまずいと批判しているのだ。
鈴木知事の「スピード感」を強く印象づけたのは、6月18日にJR東海、山梨県と締結した調査ボーリングを巡る3者合意である。
静岡新聞はその合意が内容の伴わないまさに「拙速」と評価している。
果たして、その評価は妥当なのか。
川勝知事の時代、静岡県は「水一滴も県外流出は許可できない」として、「静岡県の水を一滴でも引っ張る山梨県内の調査ボーリングをやめろ」と主張し続けた。
ことし2月5日、静岡県は水資源保全や南アルプス保全など28項目を「対話を要する事項」としてまとめ、JR東海と協議を続けていくとした。
その28項目の1つに、「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」も含まれていた。
「高速長尺先進ボーリング(調査ボーリング)が、静岡県境から山梨県側へ約300メートルの地点に達するまでに、その懸念の対応について説明し、本県等との合意が必要である」とJR東海に懸念への対応を求めていた。
つまり、山梨県内で調査ボーリングを行うならば、県境300メートル手前で静岡県の合意を得てからにしろ、と言うのだ。
山梨県の調査ボーリングは、静岡県境まで459メートルの地点で昨年10月から休止していた。300メートル地点までもうすぐだった。
JR東海の丹羽俊介社長は5月7日、調査ボーリングを20日から再開する考えを山梨県の長崎幸太郎知事に伝えた。
これを受けた県地質構造・水資源専門部会が5月13日に開かれ、「リスク管理ができている」などとして山梨県内の調査ボーリングを一転、認めた。
当時、川勝知事の辞職を受けた県知事選の最中だったが、調査ボーリング再開に向けて柔軟な対応を取った。
あとは新しい知事が「合意」をすれば、JR東海は晴れて、県境に向けて、調査ボーリングができることになった。新たに就任した鈴木知事は6月18日、予定通りに、「山梨県内の調査ボーリング」に合意した。
県民を驚かせたのは、調査ボーリングと比較して大量の湧水流出が懸念される先進坑、本坑掘削工事まで認めたことである。
合意には「『静岡県の水』という所有権を主張せず、『静岡県の水』の返還を求めないこと」を盛り込んだ。
鈴木知事の合意に対して、静岡新聞は「『前のめり過ぎる』との懸念が県庁内部からも聞こえる」とした上で、「県境付近のトンネル工事の影響は議論していない」「(鈴木知事は)問題解決に向けた前進をアピールしているに過ぎない」とする匿名の専門部会委員の声を紹介し、批判したのだ。
「拙速」だというのは、調査ボーリングだけでなく、一挙に先進坑、本坑まで認めてしまったことを指すようだ。
確かに5月13日の専門部会では調査ボーリングについてのみ認め、先進坑、リニアトンネル本坑の工事については議論していない。
調査ボーリングの断面直径は約12~35センチだが、先進坑のトンネル幅は約7メートルとケタが違う。
元副知事で静岡県のリニア問題責任者だった難波喬司・静岡市長は「調査ボーリングによる湧水量は、先進坑掘削に比較して、1.8%程度しかない」と発言していた。
逆に言えば、先進坑で出る湧水は膨大な量となる可能性もあるのだ。
それなのに、鈴木知事が県専門部会に諮らないで先進坑、本坑の工事を合意したから、静岡新聞は「拙速」と批判したのだ。
だが、この批判は的を射ていない。
氏名不詳の委員が「問題解決に向けた前進をアピールしているに過ぎない」などと政治的な発言をしたとしたら、県専門部会委員失格である。
県専門部会は科学的知見から県に助言することが役割であり、リニア問題について最終的に判断を下す権限は知事にある。
そのような委員の意見をそのまま使うこと自体おかしい。
もともと、「トンネル内に圧力が掛かると静岡県の水が引っ張られるから山梨県内のトンネル掘削工事をやめろ」という主張自体が難癖でしかなかった。
トンネル掘削工事の前提となる「調査ボーリングをやめろ」に至っては、難波市長だけでなく、山梨県の長崎知事、大井川流域市町長らがこぞって荒唐無稽な主張だと批判していた。
それにもかかわらず山梨県内の調査ボーリングを開始したJR東海に対して、川勝知事は「静岡県側の断層帯と山梨県側の断層帯がつながっている可能性を示したデータがある」などと怒りをあらわにし、またまた違う新たな言い掛かりをつけるなど紛糾した。
その後もごたごたは続き、すったもんだの末に、川勝知事はリニア問題を放り投げて辞めてしまった。
川勝知事からバトンタッチした鈴木知事の積極姿勢を、「前進をアピールしているに過ぎない」とする批判は正当性に欠ける。
山梨県内の調査ボーリング、先進坑、本坑掘削にとやかく言い掛かりをつけたこと自体がおかしかったからだ。
ただ気になるのは、せっかく山梨県内の調査ボーリングに合意したのに、そのボーリングが現在止まっていることである。
7月15日に国のリニア静岡工区モニタリング会議の矢野弘典座長らが、山梨県早川町の山梨工区の調査ボーリングを視察した。
矢野座長らが視察した際、調査ボーリング地点は県境手前339メートルだった。
これは、鈴木知事が6月18日に山梨県のリニア工事に合意した時点と全く変わっていない。つまり、約1カ月間、県境手前339メートルのまま止まっている。
5月20日に459メートルの地点で調査ボーリングを再開して、6月18日には、339メートルの地点まで到達していた。
単純計算でもし同じペースであれば、7月15日には県境手前300メートルを越えて、220メートル地点まで進んでいなければならない。
調査ボーリングは止まったままだから、まだ山梨県内の断層帯に至っていない。県境手前300メートルを越えて破砕帯にぶつかり、大量の出水があるのかどうかわかるのはこれからである。
冒頭に触れた各紙の報道で、岐阜県、山梨県、長野県でもJR東海の思った通りには行かず、リニア工事が長引いていることが明らかになった。
静岡、山梨県境の調査ボーリングが何らかの原因で止まっているトラブルなどまだほんの序の口である。南アルプスの地下では何があってもおかしくないのだ。
「世界最大級の活断層地帯」南アルプスのリニアトンネル工事は不確実性の高い難工事となるとわかっている。
まさに未着工の静岡工区は、南アルプスの活断層地帯の中心にある。
大きな障害だった川勝知事がいなくなっても、リニア工事が順調に進むのかどうか、すべてこれからである。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)