8月15日は「終戦の日」。これは、1945年の第二次世界大戦終結日の日本における呼称である。この日の正午、昭和天皇はラジオでの玉音放送によって、日本国民に終戦を伝えた。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんと欲す」という一節で知られる、あの詔勅だ。
史上最多の犠牲者を出した、史上最大の戦争。それが第二次世界大戦であった。ここで第二次世界大戦が起こるまでの世界の動向を簡単に整理しておきたい。
18世紀の中頃、イギリスで始まった産業革命は、その後西洋諸国に広まった。そこで一気に巨大化した各国企業はさらなる成長のために、金銀や貴重な奢侈品、嗜好品の獲得、自国工業の原料を安価に獲得し、さらに自国工業製品を独占的に売りつける市場を求めて植民地獲得に向かった。
アジアの植民地化はすでに17世紀には始まっていたが、産業革命後、彼らは、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、中国大陸、朝鮮半島、日本を含むアジアをその標的として定め、その獲得競争を激化させていった。
そうした流れの中で起こったのが、日清戦争であり、日露戦争であり、第一次、第二次世界大戦である。そして日本も、その渦に巻き込まれていった。
1972年生まれの私自身は、これらの戦争を直接経験したわけではないし、戦後の混乱期も知らない。
けれども、檀家の高齢者の方々や90歳になる父から、戦時中や戦後の様子を聞かされて育ったからなのか、子どものとき夢中になって読んだ『はだしのゲン』が鮮明に記憶に残っているからなのか、8月15日を含む御盆期間中は、何か妙に心がザワザワする感じがしてならなかった。実際には経験していないはずの戦争を遠い昔のことではない、身近なことのように感じていた。
その理由がはっきりと分かったのは、つい2年ほど前のこと。ジャーナリストであり、大正大学招聘教授であり、浄土宗僧侶でもある鵜飼秀徳氏が書かれた『仏教の大東亜戦争』(文春新書)を読んでからだ。
この本の中にある、
・本堂の位牌堂には、今でも~中略~現人神天皇を敬う位牌(天牌)が祀られている。 ・戦争中の過去帳には、檀信徒が戦死したことを証明する「烈」「勇」「忠」「國」「誠」などの軍国主義を想起させるような文字を選んでつけた戦時戒名が並んでいる。 ・戦時中の金属提出によって、多くの寺には梵鐘が下がっていない。 ・「陸軍戦利品委員会」が戦争記念として配布した砲弾が奉納されている。
など、「鵜飼氏の寺に残る戦争の痕跡と全く同じ爪痕」が、私が住職を務める福厳寺にも残されていたのである。
そして先著を読み進めるうちに、8月のお盆あたりになると感じていたあのザワザワ感の裏に、日本仏教界による驚くほどの戦争協力があった事実を知ることとなった。
以下、鵜飼氏の『仏教の大東亜戦争』からその具体例をピックアップして、日本仏教各教団による戦争協力の概要を紹介したい。
「生き物を殺さない」という不殺生戒を第一の戒とし、慈悲と智慧を説く仏教教団がこぞって、侵略戦争にも、軍艦製造や戦闘機製造にも、積極的に加担していたという。
各教団の管長、総長らは自らが先頭に立って「1機でも多く! 寸刻でも早く!」と、あるいは広報紙をつくり、あるいは月刊誌で、あるいは格式や経済力に応じて決められる末寺への負担金を通じて、それぞれの末寺や檀信徒への献金を呼びかけた。
各宗門のトップが呼びかけた献金活動は、それぞれの教団が持つ全国の檀信徒に広がり、中でも婦人会の女史たちは、絶叫して献金集めに協力した。なぜなら彼女たちの愛児たちが、航空隊の、戦車隊の第一線で奮戦していたからである。
かくして日本仏教界は、零戦を始めとする軍用機、軍艦などの殺戮の道具である兵器を次々と、競うようにして献上したという。
それら軍用機の推定価格は、戦闘機が7万円、偵察機・軽爆機が8万円、重爆撃機が20万円。現在の物価水準で換算すると、戦闘機1機が1億8000万円超。
献納機は、陸軍では「愛国号」、海軍では「報国号」と呼ばれ、それぞれどこの団体から、どのような献納を行なわれたかが「陸軍愛国号献納機調査報告」に記録されている。
その記録によれば、終戦までに諸団体、個人から陸海両軍に献納された軍用機は、1万2000機にのぼる。
もちろん仏教に限らず、キリスト教など他宗教の団体も軍用機を献納しているが、仏教系団体が献納したのは、判明しているだけでも愛国号、報告号合わせて51機。
献納者の名義は、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗、天台宗などの宗門や本山、地域仏教界、仏教報告会などである。
しかも各団体は献納機へ、それぞれの宗門に特徴的な名称をつけて献納した。
例えば大阪の四天王寺は、「持国天号」、「増長天号」、「広目天号」、「毘沙門天号」と四天王の名を。浄土宗は、明治天皇から法然聖人に贈られた大師号である「明照」を。曹洞宗は、「曹洞1号、2号」などを。臨済宗妙心寺派は「花園妙心号」「臨済号」を……。
真宗大谷派は、軍艦建造のために1期100万円(現在の25億円以上)もの献金を2期に渡って実施し、海軍に献納している。中には操縦席に仏像が安置されたものまであったというから驚きだ。
それにしてもなぜ、日本仏教の各宗門は、ここまでの戦争協力を行なったのだろうか。
実は、慈悲と智慧の体現者であり、社会の調和と寛容を説くはずの仏教教団や僧侶たちが、帝国主義の波にのまれていった背景の発端は、一連の戦争が始まるずっと以前にあったという。
何かの出来事には、必ずその背景がある。歴史的な出来事の真相を知りたければ、その出来事の前に何があったのかを知ることが近道だ。
鵜飼氏は先の『仏教の大東亜戦争』以前に、『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)を著し、「僧侶たちが戦争協力に追い込まれていった背景」を詳細に述べている。
それが明治維新という美しく語り継がれる物語の裏で行われた、仏教への迫害・破壊行為「廃仏毀釈」である。
以下、鵜飼氏の『仏教抹殺』から、明治維新の立役者たちが仕掛けた、驚くべき仏教排斥運動の数々を紹介したい。
日本では、中世以降江戸時代まで、永らく神道と仏教が混ざり合い、寺と神社が同じ境内地に共存していた。京都の門跡寺院に見られるように、神に祈るべき皇族や公家が寺の住職を務めた時代もあった。ある意味「ゆるい」宗教風土が醸成されており、その中で僧侶の堕落も起こっていた。
そこで、維新で幕府を抑えて台頭した明治新政府は、万民統制のために、王政復興、祭政一致を掲げて、天皇中心の神道国家を目指したのである。
当然、神道と混在していた仏教は邪魔になる。
そこで明治政府は、1868(慶応4)年に神と仏を切り離す法令である神仏分離令を発して仏像・仏具を排斥し、僧侶に還俗を迫った。
それを拡大解釈した者たちが過激化し、為政者や市民が仏教寺院や慣習をことごとく毀(こわ)してまわったのである。この廃仏毀釈は1870(明治3)年ごろにピークを迎え、その後も断続的に1867(明治9)年ごろまで続いてゆく。
特に水戸・佐渡・松本・伊勢・土佐・宮崎・鹿児島などの廃仏毀釈が激しかった地域では、徹底的に寺院が破壊された。寺に祀られていたお地蔵さまは首を刎ねられ、梵鐘などの金属類は没収されて偽金づくりに充てられた。
中でも薩英戦争をきっかけに西洋化を急いだ薩摩藩(鹿児島)における廃仏毀釈は苛烈を極め、明治初期、寺院と僧侶が完全消滅、恐れをなした僧侶の中には仏僧の立場を捨てて神官に転じた者もいたという。
日本仏教の中心地である奈良や京都でも、大量の文化財が破壊された。
東大寺、法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺などでも多くの貴重な仏像が焼かれ、中でも徹底した廃仏毀釈が行われたのが興福寺だ。
興福寺では、建物が打ち壊され、国宝級の仏像が毀損されたり、国内外に持ち出されたりして、事実上の廃寺と化した。さらには境内の鹿たちまでが、狩られてすき焼きにされたというから驚きである。
さらに明治新政府は、神仏分離令に続いて、上知令を出す。上知とは、寺社の土地を召し上げることである。江戸時代に15万6463坪を有していた京都の清水寺は、1万3887坪まで減少。高野山は756万坪を上知されている。
中でも、江戸時代に幕府権力に迎合することで拡大していった浄土宗、天台宗、真言宗、臨済宗などは、上知令によって相当なダメージを受けた。
西郷隆盛、大久保利通など、明治維新に関わった中心人物たちが、ことごとく廃仏毀釈の激しかった地域の出身者であることは、日本がその後、世界大戦へと突っ込んでゆくシナリオに照らし合わせると興味深い。
彼らは、尊王倒幕の裏で仏教を確実に弱体化させていったが、時代の移り変わりを察知した仏僧の中には、生き残りをかけて「献金」という形で朝廷にすり寄る動きをする者たちが現れる。
1863(文久3)年には、東西本願寺が朝廷に一万両を献上した。西本願寺第20世門主大谷光沢の遺言には「現世には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に報ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難を免るるみとなられ候やう」の言葉ある。つまり「天皇に忠義を示し、天皇から授かったこの上もない恩義に報いることで、死後は極楽に往生し、この世の苦から逃れることができる」と説いているのである。
この遺言に代表されるように、天皇の名の下に国家が行う戦争と、仏教が説く不殺生のギャップを埋めるための大義名分の数々がその後、仏教各宗門で作られ、広がってゆく。
そして、天皇の道(皇道)と仏教を合一させた皇道仏教なる思想が生まれ、日本仏教界は戦争する国家に自ら参画、協力する道を突き進んでいった。
それでも日清戦争の頃までは、まだ上海や北京などに別院を建立し、布教、従軍僧として軍隊の慰問、戦死者の慰霊、捕虜に対する慰問や説法といった活動だった。ところが日露戦争以降、第二次世界大戦のピークに至るまでの協力活動は、どんどん過激さを増していき、最終的には戦闘機や軍艦の製造、献上といった戦争協力にまで至ったことは、先述の通りだ。
もちろん、こうした戦争協力は何も仏教界だけに限定された話ではない。日本中の経済界も、教育界も、宗教界も、新政府の圧力、軍の圧力、社会の同調圧力に押されて、日本全体がかの悲惨な戦争に突っ込んでいった。
1945年8月15日、冒頭に述べた玉音放送によって、日本が連合軍に無条件降伏した旨が、国民に伝えられた。そしてこれが日本の終戦の日となった。
しかし世界の多くの国では、9月2日が第二次世界大戦の終結だとされている。その理由は、日本がポツダム宣言を含む降伏文章に調印した日だからである。
いずれによせ私自身、宗門の大学や大学院で学び、日本を代表する専門僧堂で行を修めたにもかかわらず、鵜飼氏のによる『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』の「仏教の大東亜戦争」を読むまでは、日本仏教の戦争協力やそこに至るまでの歴史的経緯について詳しく知ることはなかった。
私だけではなく、戦争を知らない多くの僧侶たちも知らないだろう。なぜなら、それは日本仏教のタブーであり、どこでも教えられることがなく、語られることもなかったからだ。
だからと言って無かったことにしてはならない。「もう昔のことだから、蒸し返すな」としてはならない。「慈悲を説く僧侶たちが情けない、けしからん」だけでもない。「あの時代は国民全員が戦争協力せざるを得ない状況にあり、宗教者、仏教僧であっても、それは抵抗できない仕方ない状況だった」と開き直るだけも違う。
私は今こそこうした史実を、僧侶はもちろんのこと、日本人にも世界の人にも知ってもらい、「戦争」を俯瞰して振り返る必要があると感じている。
なぜなら、戦争は今でも終わっていないからだ。世界の国々は現に今でも戦っている。第三次世界大戦はすでに始まっているとさえ言われている。戦争は今でも私たちにとって他人事ではないのだ。
では私たちはこれから、どう生きれば良いのか。私はその答えが、1951年9月6日、サンフランシスコで行われた日本との平和条約締結調印会議にて、セイロン(現スリランカ)政府代表として、J.R.ジャヤワルダナ氏が行った演説にあると考えている。
実はこの会議にて、日本は4つに分けられ、アメリカ、ロシア、イギリス、中国にそれぞれ分割統治をされるはずだった。それを救ったのがジャヤワルダナ氏だ。
ジャヤワルダナ氏は、セイロンが日本の攻撃で受けた損害の賠償請求権を放棄し、これからのアジアを活気づけるためにも、日本は独立国として自由な国にすべきだと主張した。
さらに彼は、日本と同じ仏教の教養と伝統に生きる国の代表者として、ブッダの言葉を引用して国際社会を説得した。その言葉とは、「憎しみは憎しみによってはやまず、ただ愛によってのみ止む」というダンマパーダの一節だ。そしてこの主張が拍手喝采で受け入れられたのである。
私たちは、日本がいまの日本である背景に、このセイロン代表であるジャヤワルダナ氏の勇気ある発言があったことを忘れてはならない。
そしてこのジャヤワルダナ氏の発言の背景に、「飽くなき欲や怒りから離れよ」「慈しみと智慧を育て、社会と調和して生きよ」と説いたブッダの教えがあったことを忘れてはならない。
なぜなら戦争は、決して過去に起きたことではなく、いま現在起こっていることだから。決して他国で起こっていることではなく、再び日本も巻き込んで起こるかもしれないことなのだから。
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(佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表 大愚 元勝)